フィルモア・ジャイヴ
何か時々巻き起こる変な気持ちで、『孤立したい』っていうのがあって、なんだか説明し辛いのだが、要するに全てを敵に回したい欲求とでも言うのか、そんなものが私の胸に浮かび上がる事がある。多分中二病。
それは別にそのときの私の状況によって起こるわけではない。辛いときに限って起こるのではないし、楽しいときに限って起こるのでもない。自信があるときに限って起こるのでもないし、憂鬱なときに限って起こるものでもない。
まず、『普通の人とは違う自分だと思っていたい』という欲求がある。これはおそらく、誰もが抱く事のありうる感情だと思われる。誰にだって得意になることはある(と私は勝手に思っている)。『俺はこの点においては少なくとも一般の多くの奴等、ひいてはその辺で楽しそうに歩いてるちゃらちゃらした若者とは違うぜ』といった感情が起こることは、結構多くの人が体験する事があると思う。
また、『中二病』というものに対して自覚的になってくると、今度は先の『普通の人とは違うんだぜ的優越感を感じる自分』を恥じるようになる。この、前の段階からここの段階に移るまでには、なんと言うか、一種の『決別』とも『裏切り』とも『白け』ともいえる感情が様々に作用する。即ち、自分を素敵と思う事に対する『懐疑心』や『羞恥心』、または自分を持ち上げない事が格好いいと思う思考回路が、先の情熱を真っ向から否定してしまう。そうなればその情熱も所詮『井の中の蛙』的なものと切って捨ててしまうようになる。
ここからはいくらか道が分かれてしまう。
そのまま自尊心を持つことを辞め、自分の能力をそれなりに使って暮らしていく人。
『一般的』というものに埋もれる事が、社会的に相応しい事だと思う人。
一度否定したけど、やっぱり情熱はまだ少しくすぶってるなあという人。
中二病であった自分を、優しい目線で見れるようになる人。
そして、中二病的である事に対して、開き直ってしまう人。
どれも別に間違いではない、間違いなわけ無い。そこにあるのはただ個人の感受性の差異だけで、個体のの優劣では決してない。そういう目線で自分を責めることが出来る権利を持つのは自分自身だけであろう。
初めの話に戻ると、『孤立したい』という欲求は先の『中二病的無頼感』と『アンチ中二病的批評感』、更にそのもう一段階上の『それでもやはり自分は社会に溶け込めない』という不安と自信の混ざった感情とが嫌な具合に混ざって生まれた、全くもってたちの悪い症状である。この状態は自信と不安が極端に両立している。『社会に溶け込めませんけど何か?』的な感情は、もはや社会に溶け込めないこと自体に価値を見出しており、所謂『自信がないことに関して自身がある』という感情のもつれが生まれる。こうなると今度は駄目な自分の肯定に進む。そして、『どうせ今堕ちている状態ならば、行ける所まで堕ちてみたい』と思い、その手段として、自分に対する障害を『一般社会』から『自分以外のもの全て』に広げてしまう。私には最早この状態は『確かな批評眼をもって周り全てを見通している』のか、それとも『他の誰とも異なる事を精一杯アピールしている』のか分からない。
分かりやすい例示:ペイヴメントの『フィルモア・ジャイヴ』の歌詞(抜粋)
まずは恐れがあって、顔には陰気な表情が浮かぶ
街にはパンク野郎どもが溢れていて、奴等はみんなビョウをまとってやがる
長いカーリーヘアーのロックンローラーたちをご覧、
おやすみロックンロールの時代、もう誰も必要としていないのさ
だけど連中は酷くイカれすぎている
痩せこけたジャズ野郎の手、そして僕にはダンスモノは軽すぎる
見ての通り、あらゆるポピュラー音楽のジャンルを斬ってしまうこれは、果たして鋭い批評眼の賜物か、それとも単なる自己アピールか。
このCDが、今のところ私は彼らのアルバムの中ではかなり好きなほうだ。ボロボロのプロダクション、やたらと明確に他者を否定する歌詞、とても『USインディー』的なサウンドとポップなメロディ、そこにはよく判らないが底知れぬ情熱と、音楽に対する彼らの捻くれた思いが若々しい姿で詰まっている。
要するに上の『孤立したい云々〜』の文章は、ただこのCDを紹介したいがゆえの前フリであった。ああ面倒くさい。やあそこのあなた、ビートルズが好きだって?ピクシーズが好きだって?聴いてみなさいよ。良きにしろ悪きにしろ。








