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思い出シリーズ第二回:スーパーカー編

2009年10月06日 05:00

くるりについて時代も含めて考えるなら、どうしても同時に考えなければならないアーティスト、ナンバーガール、中村一義、そしてスーパーカー。いわゆる「97年世代」の中核と言っても過言ではないはずなこれらの中から、今回はスーパーカーについてだらだら。

スーパーカーはなんか本当に不思議なバンド。何で青森の方から出て来た田舎者四人がそのくせ初めから都会的なスノッブさ、しかも刷新的なそれを持ち合わせて登場し、そしてどんどんそれに磨きをかけていくことが出来たのか。そう、このスーパーカー的なスノッブさこそがスーパーカーの全てと言っても過言ではないし、彼等自身もその方向性から一歩も外れること無く邁進した、音楽性も、歌詞も、ライブの仕方も、バンドの末路までも。

聴けば聴くほど全国のギターポップファンが嫉妬するだろうデビュー曲。インディーで活動していた同時代のバンド達も大いに嫉妬しただろう「ええっ!?何でこんなやる気無さそうな奴等が、こんな平板で簡単な曲でデビュー出来るんだよ!?」と。いやしかしその「やる気無くて平板で簡単」こそがスーパーカーの重要なポイントであった。この曲の時点で既に既存のいかなる日本歌謡、及びそれに組み込まれてしまう類のロックミュージックとはまるで方法論が違っている。

それで満を持して発売されたファーストには、当時のロッキンオンジャパン編集長にしてアンチヴィジュアル系の筆頭・山崎洋一郎とやっぱり日本の「ダサい」ロックを文化的根底から否定したいスヌーザー編集長・田中宗一郎の二人がライナーを書く。要するに、スーパーカーのデビューはどことなくストロークスのデビューに近いもんがある。「脱大衆的なカジュアルさを求めた一部メディアによる着火」って感じ。どっちも成功しているんだから、こういうメディア先導感は否定しがたい。もっとも、メディアの期待に応え得るだけのバンドの能力あってこそだが。

歌詞や歌のメロディ以外は完全に洋楽インディギターロック(っていうかジザメリ)の方法論のみで作られた19曲。そしてぼそぼそとした平面なボーカル、歌詞を詰めたりせずにゆったりと気怠く歌うそれは日本語の持つ平坦な感じと相性がいい。メロディの抑揚もなんかだるそうで、ともかく「バンドやってもてたいぜ!」みたいな情熱を一切排した、そんな具合。そしてしたたかに「いやぼくたちの世代ってこんなんなんで」としれっとしている歌詞。

何故かデーブ。それにしても、新人でこのPVって、相当優遇されてるよなあ。このバンドのデビューがストロークスと同じような狙いであることがよく分かるPVだと思う。

サウンドを広げていくに当たってギターを工夫するとか曲調をどうのとかではなく、さっさと打ち込みを導入するというのもなんともサバサバしている感じで彼等らしい。

この打ち込みのチープさ、「とりあえずまたただのギターロックをするのも馬鹿らしいからちょっと工夫してみたよ」って具合。「手抜きなんて当たり前」って感じで演奏力を度外視した平板なサウンドが何とも心地良い。この辺りからドラムがリズムマシーン化し始める。「踊れるものを作ろうとしたけど上手くいかなかった」とナカコーが述べる、打ち込み要素が入りながらもわざわざアルバム全編にレコードノイズを混入させローファイな出来の2nd。そしてその後、それまでのストックを清算すべくリリースされる二枚のアルバム。どの曲も本当にセンス一発って感じで、しかし悔しいけれどそれがシンプルかつ的確で良いんだよなあ。

一番笑えるPV。本当にスーパーカーはヴィジュアル的に恵まれたバンドだった。

ここまでがローファイで可愛らしく憎たらしくスノッブなスーパーカーって感じ。このやる気無いスタンス、あと時々歌ったりもする女の子ベースは後発の多くのギターロックバンドに模倣されただろうけど、でもあまりサウンドが初期スーパーカーのフォローワーっぽいバンドって表に出て来ない。割とやってることは普通だから埋もれてしまうのか。

ともかく、ここまでが「スーパーカー」で、ここより先が「SUPERCAR」って気がなんとなく。良くも悪くもここから大きく変化していくような。持ち前のスノッブさもまたサウンドの変質によって変化していく。
NYでレコーディングされた3rdは打ち込みの割合がぐっと増し、そして音もかなりハイファイになった。キラキラしたサウンドがバンドの特徴となり、「近未来サウンド」と呼ばれてもてはやされた。スマートに進化していくようなその光景には、相変わらずの歌詞やスタンスのスノッブさとは裏腹に、何かこの先の時代の可能性みたいな雰囲気も勝手に代弁させられていたような気がする。

この曲だけPVがようつべに上がってなかったので、ラストライブより。熱いナカコー。曲の突き抜けていく感じが非常に気持ちがいい。

アルバムバージョン。「安心を買った」は「手抜きなんて当たり前」に続く「僕たち世代」って感じのフレーズ。後にくるりが『ばらの花』や『愛なき世界』なんかで返事を返したりして、同世代感をアピールするのに一役買った。

でも、結構バンドサウンド中心の曲も多いし、打ち込みのリズム上でもギターがガンガン鳴ってたりして、この「折衷感」が「世代の優等生」的な感じでもてはやされた部分もあると思う。少なくとも、この後の変化を考えるとあくまで3rdも過渡期なんだなあと思わせられる。驚きとともに思わず「スーパーカーどうしたん!?」って思ってしまう次のシングルを聴けば。


急にこれだもんなあ。ここに来て遂にギターは消滅、ついでに憎たらしさを含んだスノッブさも消滅。ここからスーパーカーは一気に別のバンドの様になって、というかもはやバンドなのかも怪しくて、そのスノッブさが本当に先鋭化して、何と言うか、バンドと曲じゃなく、総体としての「SUPERCAR」という雰囲気みたいなものになった。どんどん言葉と意味を削ぎ落とし、音とささやかに香る程度のメッセージだけとなった言葉の鋭さ。純度が高すぎて逆に病んでいるような、意志をなくして音そのものに変質していくような、そういう危うさ。当時のファンにおいても、いやむしろ昔から好んでいた当時のファンこそ賛否両論の渦を巻き起こしたであろう4th。ばっさりと多くのものを捨てた。ギター、感情、生ドラム(コーダイ……)。

バンド解散後にアニメに使われる。かろうじてかき鳴らすギターの残ったこの曲も、意思を放棄した歌詞や目立ったサビを作らない曲構成などがその無機質な雰囲気を構築する。

これもPV無かった。もう完全にバンドを超越した「音楽のための集団」となったSUPERCAR。しかしこの頃の曲はこれや『STROBOLOIGHTS』みたいにピンポンに使われたり上みたいにアニメに使われたりでメディアに出る機会も多く、そういうことでアルバムも一番売れ、今となってはこのアルバム『HIGHVISION』こそが最も「SUPERCAR」を代表するイメージであろう。「97年世代」がそれぞれ独特の変化を遂げる2002年において、SUPERCARはまさにポジティブイメージなどを排した純粋な意味での「光の音」と化していた様に思う。

もちろんこういった状態がバンドとして健康的ではなく、実際にこの時期にはメンバー内で「解散」という言葉が出始めた。でもナカコーは「もう一枚作りたい」と言う。スーパーカー最終章。

最終型のSUPERCARが選んだスタイルは、曲展開やサウンドの雰囲気、スタンスなどは『HIGHVISION』を継承しつつも、大きくバンドサウンドに回帰すること。これによりサウンドはポストロック的な冷ややかさと『HIGHVISION』的純音楽感が同居した。5thアルバムのニューウェーブ的暗さと反復フレーズの浮き沈みの連続。曲構造もどんどん簡略化され、アレンジによって曲展開を作っていく部分が大きい。あとフルカワミキが全然出て来ない。このアルバムの前に解散を言い出した彼女、本当にSUPERCARの音楽造りに対する情熱を無くしていたのだろうか。

タイトルやら虚無的で穏やかな美しさやら、色々と発売当時ファンを不安にさせたであろう曲。いやあ名曲だなあ。確かにこんなの出してこの後どうするの?って感じ。最後の淡々と流れていく感じが切な過ぎる。行かないでSUPERCAR!

で、アルバムからのリカットシングル(名曲多し。個人的には5thアルバムより好き)を出して、しばらくライブして、そして沈黙の後、突然の解散宣言。そしてラストライブ。MC一切無しで淡々と演奏、ナカコーが時々思いついた様に歌い回しに感情を露出させ、コーダイはずっと恍惚と悲しみの表情でドラムを叩き、ジュンジはきっちりと仕事をこなしながらも最後の最後まで名残惜しくギターを弾いていたり、で、ミキは特に何の感情も見せず淡々とベースを弾き歌う。アンコール無し。最後までバンド固有のスノッブさを貫き通したと思う。

と思ったが、解散時のインタビューで特にジュンジが、これまでバンドのスタンスとして黙っていた感情を爆発させる。スヌーザーのバンド解散インタビューという名のジュンジのグチ大公開は笑うと同時に、いやあ何というギリギリのバンドなんだろうと思わせる。特にナカコーがジュンジの歌詞について一切興味を持っていなかったという部分に、このバンドのギリギリのバランス感覚が現れている。そういうところも含めてとことんストイックでスノッブな役割を果たし切った、何気に凄いけど、余りに虚無的なバンドだったように思う。読み直したいなあの時のスヌーザー。

スーパーカーが日本の音楽シーンで示した大きなことは幾つかある。「センスさえあれば手抜きなんて幾らしたって構わんこと」「バンドはあくまで表現の為にあって、表現の為ならどんな損傷も躊躇わないこと」そして「徹底的にスノッブで無意思であることのある極点」。彼等は特に最後の方で「無関心の果て」めがけて一気に駆け抜けた。その結果としての当然のバンドの崩壊も含めて、それはあまりに悲壮的で美し過ぎる話ではある。その性質上再結成は出来ないよなあと思ってしまうところも、美しくそして悲しい。青森の仲良しバンドだったのが、随分寂しいところまで来てしまった。

メンバーのその後と言えば、バンドで一番感情を抑圧されていたであろうジュンジが一番元気よく活動している。プロデュースにコラムにレビューに、ジュンジの活動はどこか変則的と言うか曲芸的と言うか、つまりスーパーカーの特殊性の一端を担っていた彼らしい活動ではある。文章上では相変わらずスカして憎たらしい感じだし。もうギターは弾かないのだろうな……。

ナカコーはiLLになってソロ活動。最近はバンドっぽいサウンドになったが、実は筆者はフォローしてないので多くを語れず。個人的には折角仲がいいんだから、七尾旅人と一緒に何かして欲しいな。旅人とやけのはらの合作はちょっと今ひとつ好きになれなかった。旅人にはもっとあさってなことをして欲しい!

ミキはアルバム二枚出してからソロ活動のめぼしい話を聞かないけれど、どうしているんだろう。ファッション方面がどうこうは聞くが。まあスマパンのダーシーとかよりはずっとマシか。

コーダイ……。ああ……。せめて穏やかな暮らしを。

やはりオリジネーターには現行のバンドは敵っていない気がする。ここまでこういう方向に突き抜けた、純化された雰囲気を持ったバンドっていない(いてもインディから抜け出せないのか)。「スーパーカーのフォローワー」のバンドじゃあ、こういうものを越えていくことはやはり出来ないのだろうか。少なくとも今の音楽シーンの重要な一要素に「なってしまった」スーパーカー。もっとみんな他バンドの方にばかり目配せするんじゃなく、「まあこういう感じでいいや」を定めて「手抜きなんか当たり前」でやってしまえばいいのに。上の動画の最後の方でナカコーが発する、エモーションだけを発する適当な歌の様に。
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コメント

  1. tyfk | URL | -

    スーパーカーってサウンド面でのフォロワーはいても、根本にある精神的な部分のフォロワーはあんまりいない気が。
    彼らのだらだらした価値観はすごくいいタイミングで世に出たんじゃないかなと思います。

    ジュンジがグチるスヌザ持ってますよー

  2. mzti | URL | -

    コーダイ、ブンブンの前作で叩いて以来、何も目立った動きが……。
    しかしフルカワもナカコーにおんぶだっこですからね。

  3. よしとも | URL | -

    >tyfk氏
    そう。だってフォロー出来ないし。本当に完全にフォローしようと思ったら自滅するしかない。でももうちょっと精神的に影響受けた人達が出て来てもいいよなあとも。手抜き的なスタンスだと案外木下辺りが一番近いかと、ムジカ繋がりだし。出て来たタイミングも散っていったタイミングも絶妙だとわたしも思います。

    そのスヌーザー読みたい!

    >mzti氏
    コーダイのブログ、2007年の8月で更新がストップしたままなんです……。やっぱりもう……。
    ミキはまあナカコーが傍にいるうちは安心ですけど、いなくなった時を考えると……。
    こういう具合も含めてスーパーカーなんですかねやっぱり。

  4. | |

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