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『THE WORLD IS MINE』 くるり

2009年10月01日 13:43

圧倒的文章量につき閲覧注意。面倒臭い内容ですいません。
THE WORLD IS MINETHE WORLD IS MINE
(2002/03/20)
くるり

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1. GUILTY
ダウナーに力尽きるかのようなドラムが一瞬鳴った後にゆっくり広がる、レディへやジムオルーク以降って感じの虚無的なアコースティックの世界。気怠げに歌う歌も身も蓋も無い内容で、えらくボロボロな出だしと思ったら、アルペジオから一気に高揚、スネアやギター、ベースの雨、雨、雨。そして一気に世界が飛び出し、美しいコーラスと雄大な音の海へ。でもそれもやがては止み、また元の気怠げなアコースティックに戻る。やたら伸びた音が後ろでじわじわと鳴り、だらだらと殺風景を広げたまま次の曲へ。

2. 静かの海
およそ6分半もかけてひたすら動的な感情を薄めていく、虚無なエレクトロニカ。全体を覆い尽くす深いリヴァーブが何もかもを薄めてしまうし、左右や奥からやって来る様々な音情報もその曖昧さの中でひたすら「ああ、なんか鳴ってるなあ」という感じを広げていく。前曲以上にひたすらだらしなく音を伸ばして、聞く者をひたすらぼんやりと、ぼんやりとさせる。ああ、うつろうつろ。鳴り止まない電子音。何気に低音もぼんやりと効いてくる。昇天する電子音の後、次曲のイントロがイン。

3. GO BACK TO CHINA
なんともどこの国籍かよく分からないが、多分西洋ではなくむしろアジアなんだろうって感じのギターリフが自由自在にその身をウネウネと動かす、このアルバム初のタイトなロック曲。しかしそれでもそのリフの魑魅魍魎具合とそして何より明確な展開的オチを持たない曲やメロディのせいで、前曲までの虚無感は失われない。ベースもドラムもかなり細かくファンクにウネウネするのに、やっぱり気持ちは空っぽみたいな、そんな不思議な感覚がある。と同時に、くるりが独自のエスニックセンス(もはや京都や東京に留まっていない感じ!)を派手に電化した記念碑的な曲でもあるかもしれない。ひたすら音が鋭く若干もたり気味にロールするもっくんのドラムが最高に気持ちがいい。もっくんお疲れ!

4. WORLD'S END SUPERNOVA
5. BUTTERSAND / PIANORGAN
繋がってるので一曲扱いで。先行シングルだけど、その曲の雰囲気がアルバム冒頭から続く虚無感を妨げないどころか、むしろ積極的にブーストしていることが凄い。モコモコする電子音、逆回転のシンバル、輪郭の曖昧なキーボード、遠くで世界の果てのように鳴る電子オルガン、そして打ち込みによる無感情なビート。ボーカルも重ねる部分とシングルの部分とをはっきりと区別し、シングルのところは「僕ら」若者のやるせなさと寂しさを、そしてサビではそういう感傷を抱かなくてもいいようにひたすら踊る機械になって、それがまた何とも感覚ばかりを先鋭化させて寂しい。二回目のサビで一気に開けた世界、その中に降りてくるミドルエイトの歌詞の身も蓋も無さがもう、なんとも残酷で、ここではもう「踊る」ことによる快楽性すら信じられなくなって、ただ感情を薄める為にひたすら身体を動かすのみになっている。そんな感覚を抱いたまま「どこまでもいける」だなんて。PVにも出てくる淡い海岸のような冷えきった感情をダンスに突っ込むのがもう随分と寂しくて、だからそこから繋がってくる長いインストの部分はひたすらその言葉を失った微妙な反復の感覚を描写するように、点々と電子音を垂らしているような気がする。最後オルガンが前面に出て来るところなど、なんかダンスフロアから本当に忘却の果ての世界にやって来たようで、何とも心細くなる。

6. アマデウス
前曲で辿り着いた忘却の果てで頼り無く旅をするような、そんな感覚の曲。印象的なピアノはずっと同じ音を鳴らし、ドラムを排した曲の中でリズムとして機能している。メロディはチェロとコントラバスとそして頼り無くて曖昧な岸田の歌だけ。優美な弦楽隊も先程までの遠くで鳴る電子オルガンと同様の奥行きだけがある世界のために使われて、その質感は情が無くて寂しい。言葉数が少なくて隙間が多い歌が、まるで微妙な感覚を最小限でなぞるようで切ない。サビでリズム良く言葉数が増えると、虚しいけどそれでも仕方なく、当ても無く歩いていくような光景が広がる。

7. ARMY
モノトーンな幾つかの単調なアルペジオと機械的なリフの二本のギターの間をぼんやりと岸田の歌が泳ぐ、濃厚なサイケソング。空虚な世界がこちらを押しつぶさんと浮上してはまた戻っていく、その様はどこか穏やかな波のようでもあるが、それにしてもこの音感覚は危うい。ひたすら明確な言葉を無くした感覚が穏やかな発作を繰り返すような。ボーカルがリヴァーブを纏って伸びては、ふっと消えてしまうのがなんとも痛々しい。そしてこの曲はベースが凄い。反復と上昇をひたすら繰り返して、気味の悪い感覚以外何も語っていない!次作『アンテナ』の『黒い扉』など同系統の曲と比べても、この曲の気持ち悪い虚無感と悪夢感は圧倒的なように思える。岸田の歌詞も言葉数少なく、何とも不安げで不吉。曲が終わった後に次曲に繋がるSE。ジリジリとしたセミの声、往来、空っぽな夏の風景。

8. MIND THE GAP
突如バグパイプを伴って入ってくる、謎の民謡的高揚。力強い打ち込みのリズムや数々のSEが盛り込まれ情報量は多いけど、それらのどの感覚も機械的で、この21世紀的なエレクトロ民謡もやっぱり民謡的な和やかな感じは希薄。そして切り替わって、急にプラットホームのおしゃべり。外国人がしゃべる日本語っぽく聞こえるこれも機械音声で、とことん電化。そしてまた祝祭へ。なんとなくバグパイプの感じが中村一義の『ハレルヤ』っぽくもある。

9. 水中モーター
ギターもドラムも淡々と進行するギターポップ、の上に乗っかるのがボコーダー通過済みのボーカルだったりして、また電子音もうようよしていて、やはりどこか変、不思議な雰囲気、それを延々と7分続けるこれも、ある意味ではエレクトロを通過したサイケと言えそう。サビの佐藤の通りのいい爽やかな声も深いリヴァーブと電子音にまみれて不思議な感じ。二回目のサビからギターの調子が変わり、そしてこの曲唯一のドラムも反復を止めリズミカルに転げ回る、がそれもすぐ終わりまた延々と続く反復に。4分台のところで薄いサイケデリアを纏ってセリフが始まるところでまた緊張をチャージして、そしてそこから曲が終わるまでの2分半、延々と同じギターリフ、リズム、そしてたまに降り注ぐシンバル音の砕け散ったようなキラキラ、この気の遠くなる感じ、特にリフがポップで朗らかなだけに、その永続感がなんともうだるような倦怠感とかぼんやり海を眺めている時の意識の拡散具合とかそんなんに重なってぼんやりぼんやりしていい感じ。ああ、うつろうつろ。

10. 男の子と女の子
前曲の電子音が消え去った後に、ごく普通の、生々しいアコギの音が入って来るので少しどきっとする。そして今作で一番素直に岸田が朗々と歌い上げる、その音の伸ばし方がなんとも身近な感じ。気が抜けている感じ。なんか疲れてのんびりと歌っているようにも感じる。他の楽器が入って来てからもアコギの響きはあくまで中心にある。この曲だけエレクトロな風味付けが全く為されていないので、岸田の歌がぐっと浮かび上がってくる。けだるくメロディを持ち上げたり落としたり。歌詞の「僕達」という視点の月並さを眺める部分とサビでの「僕」のちょっとした切実な願いが交差している。地味にギターがアメリカン。

11. THANK YOU MY GIRL
シンプルで爽やかなギターロック、だけどこのアルバムの虚無フィルターを通すことで劇的に切なくなったギターロック。わざとだろう音のくすみ具合や曲全体のリヴァーブ懸かってうっすら淡い感じ、そして重ねまくって輪郭のぼやけた歌などがやはりこのアルバムを通した虚ろな感じをキープさせている。本当にシンプルな曲展開もまた絶妙に切なく、そして高らかに舞い上がるコーラスの爽やかさ・美しさがとても気持ちがいい。初期スーパーカーをぼんやり眺めているような、そんな切なさ。

12. 砂の星
野外の音なんかも交えてのんびりと展開する、可愛いアシッドフォーク、って言えばいいのか。三拍子に乗ったのんびりメロディが民謡っぽい・京都っぽいが、一度だけマイナー調になる部分のメロディや歌がとても切ない。曲中ずっとぼわあんと鳴り続ける音と点々と垂らす木琴の音がとても幻惑的。というか要するにキセルだよな、これ。どこかとても寂しいところをぼんやりと旅しているような、でもそれは案外近くの海岸だったりしてという、なんかそんなスノッブさの漂う曲。確信の無い感じがなんともユルユル。ボートに乗って最後の曲へ。

13. PEARL RIVER
ゆったりとボートを漕ぎながら進む、ゆるくぼんやりした世界の旅であるところのこのアルバムを閉じる、一番うつろでぼんやりした曲。ちょっと暗めの民謡っぽい、子守唄っぽい歌をシンプルなオルガン、そしてあちこちに拡散していくボーカルエコーを引き連れ、ボーカル自体も定位を左右交互に変えながら、非常に曖昧に音を伸ばす。そして二分半ほどで歌が終わると、後はひたすら残ったボートを漕ぐ音、流れる水、鳥の声などが二分ほど延々と続く。何か変化したりすることも無く、延々とランドスケープな音楽が垂れ流され、それがふっと途切れてアルバムは終わる。要するにレディへで言うところの『Kid A』の『Motion Picture Soundtrack』みたいな感じだろうが、しかしレディへの方は仕掛けがあるのに対し、こっちは何も無いのがなんか、それはそれで不気味。ぼんやりとした日常の風景は仕掛けも無くなんとなく続くという、そういうスノッブな気持ちだったのかなあ。


くるりの2002年発表の、メジャー四枚目のアルバム。前作『TEAM ROCK』制作後のライブで岸田と佐藤のバンド史上最大の仲違いが起こりバンドは解散寸前まで追い込まれるが、大村達身の加入でなんとか持ち直したくるりはこのアルバムにて初めて四人になる。しかしこのアルバムのツアー中にドラムの森信行がなんかもうバンドに対して疲れ切っていたみたいな感じで脱退して、くるりはその後ドラム探しの大変な時期に突入する。

と、こうやってバンドのバイオグラフィーを並べただけでも、とてもこのアルバムに見合った物語があってなんとも。下手なサブカル漫画よりもよっぽど胸が痛みそうになる。後に岸田が「あれは緩い出来だった」と言ってのけ、そしてもっくんの脱退を控えていたこのアルバムはまさに、くるりが一番若者的に象徴的で悲惨でしかし貪欲だった頃の記録として非常に重要である。

アルバム全体を覆うのは明らかにダウナーな空気、意志薄弱な、ひたすらうつろな雰囲気である。前作で『ワンダーフォーゲル』や『ばらの花』『リバー』などで様々な表情を見せたくるりが噓のように、このアルバムは全体の雰囲気が気怠げである。基本は「エレクトロニカを通過したフォーク・トラディッショナルソング」といった雰囲気で、それが移し出す風景は余りに逃避的でうっすら悲しげである。プロダクションも前作の都会っぽい感じから随分変わり、どっちかと言えば『図鑑』の何曲かのぼんやりした曲を更に発展させたかのようである。そしてそういったぼんやりとうっすらと寂しい雰囲気をダンスに乗せてしまった『ワールズエンド・スーパーノヴァ』は、そりゃあもう様々な層をくるりの方に振り向かせ大絶賛され、言わばこの時代最大の「模範解答」とも言えそうな存在感を、未だに保ち続けているのである。

「ぼんやり」「うっすら」「悲しげ」「うつろ」「虚無的」など、ともかくこのアルバムのあらゆる箇所からこういった感覚が導き出されている。音の感触も、歌詞の質感もこの方向性に全面的に沿っていて、それは幾つかの世代的・時代的な性格すら帯びてリスナーに包括的なメッセージを浴びせる。そう、時代。おそらくこの時期のくるりこそが(もしくはこのアルバムから『アンテナ』に至るまでの過程こそが)、最も時代にコミットメントしくるり自身のアクションや作品も時代や世代の象徴となってしまった時期であろう、とわたしは思うのです。

97年世代というのが日本のロック史には存在するが、かつての渋谷系が結局洋楽から得る情報をカジュアルに扱うことしかできなくなって没落していった(音楽的潮流として。もちろん幾つかのバンド・グループはそういうのに関係無く精力的に活動したが)のに対し、彼等は特にオルタナミュージック的な要素・感覚を多く吸収し、かつ多くの過去の音楽情報や様々な文化を器用に処理し武装していくタイプの集団であった。「97年」というのはあくまでも一番象徴的な年なだけで、じっさいはもうちょっとデビュー年代の範囲は広い。

とりわけこの世代の代表格として名前が挙げられるのは以下のようなアーティストだろう。

スーパーカー、中村一義、ナンバーガール、椎名林檎、クラムボン、グレイプバイン(感覚的にはちょっと異質ではあるけど)、ドラゴンアッシュ(これもちょっと異質か)、七尾旅人(少なくともナカコーはそう思っている)、そしてくるり


これらのアーティストを全て完全に同一的に扱うのは不可能だけど、強いてその共通点を挙げるならやはり「圧倒的な情報処理能力」となる。過去の音楽から受けた影響を自分の血肉にし曲に注ぎ込む力が、特にこれらの世代は強力に持っていた。
(むしろ最近の新人バンドはこの辺の連中みたいにあらゆる音楽的影響や拡大を見せず、なんか小さく纏まってしまう傾向があるような気がしてなんか気に喰わない、というのは筆者のグチであるけれど)

で、これらの世代のアーティストのうち幾らかは特に相互に影響を与え合ったり色々と協力したりすることで、この世代特有の「世代感」みたいな雰囲気を作り上げた(っていうかそういうものがなんか自然に出来た?彼等がどこまで自覚的だったかは知らん)。その中でも特にくるりは相互的な活躍が多い。スーパーカーのメンバーを自身の楽曲に招集したり、中村一義のレコーディングに岸田が参加したり、特にくるりとナンバーガールの一時期の蜜月関係は当時の音楽好きの大きな感心ごとのひとつだったはず。岸田と向井の対談とか。

面白いのは、特に上で挙げた四つのアーティスト(スパカナンバガ一義くるり)が、2000年と2002年にそれぞれアルバムを出していることである。そして筆者が思うに、この後者の2002年こそが、この世代が相互関係として存在感を発揮した最後の年だと思われる(事実ナンバガはこの後解散するしスーパーカーももう一枚アルバム出して解散、一義はバンド100sに移行)。

まず、2000年に彼等が出したアルバムを並べてみる。それぞれ『FUTURAMA』『SAPPUKEI』『ERA』『図鑑』。これらのアルバムに共通しているのは、「そのアーティストが大きく変化・躍進した感じ」である。スーパーカーは未来的なサウンドをはっきりと手にしたし、ナンバーガールは所謂向井サウンドの際際感を発明した。中村一義それこそひとりで膨大な情報量を処理して「この白い世紀のドアを起死回生で開け」た。そしてくるりはと言えば、その変態性と音楽趣味、ついでに諸々のフラストレーションを爆発させたアルバムを審決注いで作り上げた。正直言ってこの年に関してはくるりが一番不器用だったかもしれない。何しろ『図鑑』はジム・オルークまで起用した器用な音処理を圧倒的ないかんともしがたさが超越していくアルバムだもの。その結論の無いフラフラぶち切れ加減が『図鑑』の魅力なのだけど。

で、この四組の中で、くるりだけ2001年にもアルバムを出す。『TEAM ROCK』。何故か急に打ち込みをマスターした彼等は都会派の最前線に立ち、ダンスミュージックの大胆な導入によってスーパーカーなどとともにこの時代の打ち込みポップシーン(なんだそりゃあ)をリードした。

そして2002年、しかしなんか、この年のこの四組のアルバムは、中村一義の『100s』を除けば、どれもなんかこう、馴れ合うイメージは完全に消滅している。むしろ三者が三様に自身の音楽性を突き詰めていた。スーパーカーは『HIGHVISION』で完全にエレクトロニカなハウスサウンドに傾倒し、歌詞・メンバー間(笑)共に言葉数が減って、サウンドと独特のスノッブな感覚を先鋭化させていくし、ナンバーガールもやはりメンバー仲を破壊するほどの際際レコーディングにより『NUM-HEAVYMETALLIC』を作り上げ、その諸行無常観と異形のサウンドを作り上げた。そしてくるりは、なんか踊り疲れてしまったのか、エレクトロニカ要素を全て「うつろ」な感覚に落とし込んだアルバムを作り、結果もっくんはバンドを去った。

(この辺、これら三者に対しむしろバンドとなって仲間が増えた中村一義は、その代わりアルバムとしての存在感の鋭さは他の三者に劣る気がするところも含めてなんか興味深い。穿ち過ぎ?)

そう、この年は特に、スーパーカーやナンバーガールの解散に向かうような無情な流れの中に、くるりもいたといった具合に、これらの世代は連関性を持っていたように向かう。そしてこれ以降、まあ2004年も確かにくるりスパカそしてザゼンのリリースが重なったりはしたけど、でも時代や世代的な関連性はあまり感じられなくなった気がする。そんな2002年という(筆者曰く)「世代最後の年」を、くるりはその圧倒的空虚なアルバムで(およびもっくん脱退による一時的なバンドの崩壊で)見事に描き切った気がするのですがどうでしょうか。

空虚というのはどこか包括的な感情で、どこまでも無限に、無秩序に広がる世界を満たすもののように思える。筆者がこの時期のくるりやこのアルバムに感じるのは、「大量の情報を器用に処理する若者世代」の筆頭だったくるりが、そのあまりの情報量の拡大、世界の拡大の中で苦しみもがき、というか「何をしたらいいか分からなくなり」(確か岸田がそんなことを言ってた気がする)、遂に「大量の情報を処理しきれなくなった・臨界に達した」、そんな雰囲気なのである。つまり情報処理として膨張し続けて来たくるり及び彼等の世代の、その限界にこのアルバムは存在する気がしてならないのです。そういう意味でこのアルバムが象徴っぽくもあるし、ミュージックシーンの転換点だったのかなあとも思います。

新世紀になり世界が扱う情報量は格段に増加し、そしてソ連崩壊後の世界の多元化は2001年の911によって遂にその多元を支配していた中心点を攻撃するに至り、政治経済学者フランシス・フクヤマが言うところの「歴史の終わり」が、地球規模の情報・問題の多元化に激しく揺さぶられる、そんな時代において、このアルバムの「とっちらかって混迷してそしてうつろな感覚」やそれと全く同機していたくるりというバンドは、この時代の一面を非常に表していると思います。

「世界は僕のもの」。もしかしたら岸田はこの混迷する世界状況を自分なりに捉えてやろうと、そんな誇大妄想じみたことを考えていたのかもしれない。そしてそれに取り組み、結果自分の想像力を遥かに越えていく世界やその時代の混迷の前に、なんとも無力さを感じ、うつろな目をして立ちすくんでいる。「知らん間にこの世界すら君のものじゃなくなってた」。このアルバムを聴いていると、どうもそんな岸田の様子が筆者には思い浮かんでしまうのです。


そしてこの後のもっくん脱退を経て岸田は、くるりは困惑のどん底、どうにか立ち直ろうともがき、ライブを主催し海外のバンドとも対バンし、また素敵な映画のサントラを作ったり、『HOW TO GO』なんていう「どこ行こうか」とかいうタイトルのくせに説得力とどっしり感に満ちた『ワールズエンド~』と肩を並べる象徴的な名曲を書き、そしてなんかチャーミングでマッスルな外人ドラマーを見つけ、アルバムを作り、「くるり新展開か!?」とリスナーを期待させながらもなんか二度目のドラム脱退を経て、そしてポップ志向になり、段々とプロっぽくなって、「困惑そのものなくるり」という印象がどんどん薄れていくのです。しかしその、どんどん大人になっていくくるりが切なくもあり、頼もしくもある、そんな思いであります。まあ最近はあんまり熱狂的に聴いてはいないんですけど。

ストリングスを纏った『ワールズエンド・スーパーノヴァ』。なんとなく、この演奏をもってようやく、くるりの困惑の『THE WORLD IS MINE』が完結したという気がします。そういえばこの時のストリングス付きのコンサートはこのアルバムからの曲が多いな。「若さ」と「世界的な広がり」の間で困惑しきっていた時代を年を経たくるりが優しく見つめているようで、なんともドラマチック。くるりというひとつの物語の、とりあえずの完結を思いました。
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