『希望の国のエクソダス』についての情緒的(笑)な感想
2009-09-04
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『希望の国のエクソダス』を読んで強く思ったこと。『愛と幻想のファシズム』でもいい。それは妙な違和感と言うか、感情的、あまりに感情的な反感だった。
賢い側のやることは本当にスムーズに次々と成功し、逆に体制側はどんどん失敗を重ねるところ。「ほらほら、賢く無い現状はこんなに酷くなるんですよ」というヒステリックさ。この辺ムカつく。もちろん作中で提示された酷いことは、幾らかは現実を受けてのものだし、後の崩壊を予見もしたが。国が作中で没落して行く様は本当に都合が良く、「そんな何もかも酷いことあるかあ!」と思ってしまう。ただ、こういう「何もかも酷い」を想定することがリスクマネジメントだと言われたら何も言えない。そしてそういうリスクの中から脱出する最善手が非常にエリート的になるのは、手段の提示としては正しい。
ただ、物語として見ていると、本当になんかムカつくのだ(笑)
特に中学生(『愛と〜』なら党員)を持ち上げ、それ以外の大人を全てほぼ無能みたいに扱うところとか。しかもタチが悪いのは、このムカつきは情緒的な問題で、非効率的で何の利益も生まない、全くの無駄だということ。どうも読者が抱きかねないこういう反感を始めから馬鹿にされているようで、それもまたムカつく(笑)
あと、この二作に通じる、徹底的なエリート主義。「社会で劣等感を味わった人間」はエリートではない。そしてあらゆる場面で状況を良い方に導くのはエリートの役目で、それ以外は徹底的にダメになる。こういう点において村上龍は、読者に全く幻想を抱かせない。非常に冷酷とも言えるし、現実的とも言える。エリートは非現実的なまでに欲望を抱かない。利益は非常に効率的に運用されるし、拡大していく。これはエリートが混乱の中での「最善手」の象徴としての存在であるから、当然無駄は一切無い訳で。ただ、そこのところが物語としては非常に気に食わないところではある(笑)もっとこう、最善と思われるプランにも実はこういう穴があってとかそういうものが欲しいのだが、最善手はまさに最善手であるため、根源的な欠陥を除けば最も有効で、非常に先進的で、もう完璧なのである。
根本的欠陥とは、『希望の〜』だったらエリートが中学生であることだし、『愛と〜』だったらそれがファシストであること。だが、この辺の根本的にはエグいけど手段としては最善じゃん!という幾らか皮肉っぽいところはどことなく村上龍っぽいと言うか、本人の人柄が伺えそうな部分ではある。それは物事の持つ実際的効果を偏重し、一切の儀礼的な無駄などを省こうとする姿勢からも見えてくる。彼が求めているのはある感覚のメタファーなどではなく、実際的な効率性と有効手段の提示だということ。テレビキャスターや国会議員が中学生に質問する辺りの無駄な感じなんかは、極端過ぎな気もするけど共感出来るもんなあ。
もうひとつ憎いところが、作者がこれだけ有効な手を提示しておきながら、主人公にはきっちりとそれに違和感を覚えるキャラを置くことである。そして重要なのが、この違和感に作中の情緒的な部分が集約されている具合である。『希望の〜』の記者も『愛と〜』のトウジも、エリートの活躍の中で唯一、そのエリートの非情緒的な側面を作中で有効に批判する手を有している(彼等が主観の物語だから)。この辺がなんかズルい(笑)まるで「こういう反感こそが適切なんですよ」と言われているような、そんな気持ちになる。
こういう小説というのは、もはや経済・ビジネスについての作者の意識を物語という舞台の上で展開したようなもので、純粋に情緒的な何かを楽しむ物語では決して無いと思う。そういう意味では文学ではないとか思ってしまうも、しかしそれでもがっつり読ませてしまう力はあるんだよなあと、悔しいながらも思ってしまう。この辺の有無を言わせぬ力と勉強量が村上龍の凄いところなんだろうなあとは思う。
ただ、これらを読んで「やべえ!ヤベエよ現代日本!オレ達も龍さんが言う見たく、マジで頑張んねえといけねえ!」とは死んでも思いたく無いのも事実だったりして(笑)確かに日本はやばいかもしれないし、頑張る必要はあるのかもしれないが、それが全て村上龍の物語や思想の範囲内で収まってしまうのはなんか癪に障る(笑)もっとも、龍さんも「……という風にオレは思う訳なんだけどさ、お前らはどう思うよ?世間のお偉い方、現代を生きるビジネスマン諸君、そしてこれからの世界を担う少年少女達よ。」と、あくまで意見の提示と挑発を行っているであろうから、「リュウはムカつくから、あいつの想像を超えて、もっといい頑張り方を見つけてやる!」と読者が思うこともまた、村上龍の望むところではあるんだろうな。それがまたまたムカつく(笑)
そして『13歳のハローワーク』に至る訳っすね!畜生!完璧じゃねえか!
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何よりも一番ムカつくのは、作家というどちらかと言えば社会システム的にフリーな立場の人間が、その自由な立場から「旧来的なシステムはもうクソだ!これからはこういう感じじゃなければならない!」と強く主張している点だ。……まあ当然って言えば当然な話ではあるんだけど。フリーで、広く見通しの効く立場からじゃないとこんな大胆な意見提示出来ないものな。意見を提示して「目覚めろアホぅ!実行しろやゴラァ!」と言う側と、それを受けて実際的に行動するシステム側と、そんな関係というものを考えてしまった。前者が学者や作家や知識人、後者が実際に働く人々、であろうか。それとも今の時代はその辺はもっと自由かもしれないか。
「これからの日本の更なる発展を祈って」とか言ったら、色んな意味で怒られるんだろうな。
「他人事みたいに言ってねえで、お前が考えて行動しろよ!」とか、
「そもそも日本という国に拘って思考すること自体がナンセンスだよ俗物」とか。
この国には選択肢と価値観が増え過ぎている。私はそれらのどれもが正解でも不正解でもないように思えて、ひたすら困惑ばかりしているのです。村上龍さんの大胆で傲慢でしかししっかりとした理論と背景を持った意見は、そういった混迷の中の大きなひとつの矢印ではあると思います。作家ってのも大変なんだなあとか思ってみたり。
村上龍の、特にここに挙げた作品について思うこと、それは啓蒙の方法と限界である。










