テレ朝……。及び信用について

 2009-03-25
【マスコミ】 「バンキシャ!」偽証容疑者、テレビ朝日でも証言していたことが判明

もう本当にがっかりした。

私は偶然、このスレにも上がっている朝日新聞の日テレバンキシャ批判の記事と社説を読んでいて、「どうせそんなこと言うけど皆アレだろう」とは思っていたが、しかし……。

マスコミのいけないところは、自身も手を汚しているくせに、それと同じように手を汚す他者を容赦なく追求し(半ば罵倒に近い形で)批判するところである。もっともらしいことを書き並べて、さも自身が聖人君子のごとく振る舞い攻撃することである。

とりわけ今回の事件は同業者が批判対象であったためその攻撃は政治的な意味合いが強く、どんなに言っていることが中立的に考えれば尤もだとしても、どうしても疑念を生んでしまうきらいがある。

教育について思うのは、マスコミを批判的な目線でもって捉える姿勢を教え込むことがあまり為されていないのではないか、ということである。むしろ新聞を読むことは無批判気味に賞賛され、というか無批判的に読み、「社会」を理解することこそが「理知的な」あり方であると吹き込まれる。もちろん新聞の害を話すものもいるが、そういったものは「新聞を読まないなんてつまらない人達!」という声に消されがちになってしまう。

実際、スポンサーが付いたり、圧力団体がいたり、視聴率やら何やらのために努力したり何したりといった理由から、マスコミの中立性というのは保たれるはずが無いように出来ている。それぞれの立場があり、それを明らかにした上で、その視点からものを言っていかなければならないのだ。

問題なのは、日本のマスコミの場合、彼等はそういった非中立性を超えた中立性を持っていると主張し、そして何より「自分たちが社会を作っている」とまで言ってしまうところにある。彼等は「ルール」なのだ。彼等は「正義」として君臨し、彼等は「裁く」。

「WBCで日本が優勝した!」とかそういうシンプルな情報でない限り、「真」である情報など何も無い。限りなく「真に近い」情報はあるかもしれないが、それですら偽造捏造嘘フェイクの可能性が残されている。私達が100%信じられる情報など、明らかな事実(これがまたややこしい言葉だが)を除けば皆無だ。

そしてこういったことは日々の生活や人間関係にも言える。人の考えなど所詮何も分かるはずも無く、信じている部分がまるっきり裏切られることもままある(そもそもその「裏切られた」というのもまた疑わしかったりする)。私達が生きていく中で、本当に信じられることというのは少しばかりの事実しかない。

ただ、こういった考えを病的に突き詰めると、神経は擦り減り、全ての事象に不安を覚え、そして誰も信じられなくなる。全てが「嘘」と「裏切り」に満ち、見るもの聴くもの全てにいちいち細かい思考の繰り返しを行い、そして疲れ、健常者(「健じょう者」)より遥かに早く老けていく。

人間関係に関しては一般的には、「挫折するたびに強くなる」とか「失恋の数だけ強くなる」とかそんなことが、様々な思惑を込めた形で叫ばれる。おそらく、上手く生きていく、もしくはそれなりに苦悩少なく生きていくためには、この「一般的」とされる言葉を信用することなのだろう。多数は正義、大衆の支持はそれなりにしっかりとした客観性と正確性と説得力がある、そう信じきることが出来れば、あなたもきっと明日から人生バラ色である。

そうじゃない人達、辛い、そうじゃない人達、「本当に信じられるものなんてそんなに多くない」と知ってしまった、そしてその考えを捨てられない人達は、辛い。突き詰めれば彼等には身を完全に預ける場所が無いのだ。孤独だ。全くの暗闇だ。そんなのを常に意識していたら、とてもじゃないけど健じょうな生活など送れるはずが無い。

結局は、その辺のさじ加減は自分で、しかもかなり適当に定めなければならないのだ。勝手に自分で「これは信じてもいい」の規格を作り上げ、それに合ったものを信じればいい。それがマスコミにも全然適応されるのであれば、まあそれでもいい。

ただ、それなりに賢くありたいと思うのならば、それなりに理性的純血を守りたいと思うのならば、常に潜在的な疑念性を抱えて生きていくのは我慢しなければならない。そして、様々な情報の中から自分の力でそれなりに信じることが出来るものを「選びとっていく」しかない。そういうことが出来る、タフな人間にならなければならない。出来ればそばに支える人やモノがあって欲しいと思っても、それに疑念を向けざるを得ない瞬間が来る、その可能性は常に抱えてなければならない。賢くあろうとするならば、常にタフでなければならない。

最後に留意しておきたいことは、上で述べたことも全部何らかの「完全に信じることなど到底出来るはずの無い」情報や経験に基づいたものであるということ。言うなれば上に書いてある私の文章も「全く信用ならない」。逆に言えば、この文章を何も疑わずに、まるっきり信じて振る舞うこと、それは賢いことではない。あれ、矛盾し始めた……?



そして、「全く信用ならない」のに、「どうにか信用して欲しい」という、最も甚だしい矛盾……。「Believe Me!」という何とも不安な願い。中二。
コメント
自ら選ぶことに神経を磨り減らして疲れて、タフになろうと思って努力、辛抱をしてもなれず、結局疲れきってしまう。自分の限界を思い知り、純粋を捨てて大衆の道を行こうと努力しても、汚れきれず、疲れきってしまう。
こういう地に足が着かない人はどうすればいいんでしょうか。
【2009/03/27 00:27】 | #- | [edit]
タフになるのは努力するもんって言うか、慣れだから。自然に擦れます心も体も。
疲れて帰ってこれる家があるとよいですね。これを書いてる私は歌舞伎町のネカフェで今日も時間延長を気にして眠る……。
【2009/03/29 00:32】 | よしとも #- | [edit]












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