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エレファント、ボウリング・フォー・コロンバイン

2008年01月22日 09:31

エレファント デラックス版

エレファント デラックス版

ボウリング・フォー・コロンバイン

ボウリング・フォー・コロンバイン

「人を殺す」ということは何なんだろう。スパッとした答えなんか絶対に出ない。

この二本の映画はどちらも同じ事件をモチーフにしている。1999年4月20日に起きたコロンバイン高校での銃乱射事件。最近起こった更なる事件(2007年4月16日、バージニア工科大学銃乱射事件)によってその印象は若干弱まったのか、却って更に印象付けられたのかどうかは定かではないが、この事件がアメリカはもちろんのこと、そのアメリカが幅を利かせている世界中にとって衝撃であっとことは間違いない(但し、イスラム圏や他の反米諸国、またこれらの事件が報道されない国、報道されようがない国においてはその限りではない)。


同じ事件を扱ってはいるが、二つの映画の立場はなかなかに対照的だ。

「アメリカ大統領よりも影響力のある男」とか言われたりもするユーモアと脂肪たっぷり(でも『SICKO』収録と連動して15キロ痩せたらしい)の映画監督マイケル・ムーアは「この事件をきっかけとして」長年の構想としてあった自身の問題興味―なぜアメリカでは銃犯罪が多いのか―を、様々な突撃取材と統計と皮肉たっぷりのユーモア(ここ大事)を用いて映画化した。それが『ボウリング・フォー・コロンバイン』。ここではムーアの問題提起を軸にしながら、事件のことやその周辺の出来事、またアメリカの歴史などからアメリカ銃社会のありようを書き出す。なぜかこの映画のレビューで「ムーアは事件の原因を銃が簡単に手に入るからだ」とか「アメリカ銃社会の原因は簡単に銃が手に入ることにあると言っている」とか主張する人がいるが、それではムーア本人もびっくりしたらしいカナダの件が忘れられてしまっている(カナダも銃所有率は高い、しかし銃犯罪はアメリカの100分の1程だという)。

ムーアはしきりに「恐怖」について言及する。企業やマスコミ、ときには政府が恐怖を作り出し、その恐怖の対象を特定の者や人物、団体そして国に定めてはヒステリックに攻撃を開始すると。ある意味それはどこにでもある話のようではあるが、特にアメリカにおいてはその側面が強いらしい。確かに「自分や家族の身は自分で守らなければならない」の国である。「守る」というのは、襲ってくる災害からだけでなく、この場合は「襲われるかもしれないもの」からも守るということである。その「襲われるかもしれないもの」のイメージを、誰かが都合のいいように作っていく。ある時は黒人、ある時はアルカイダの潜伏するアフガニスタン、ある時はマリリンマンソンを聴いているいじめられっ子、といった調子に。

ヨーロッパ圏の思想の特徴として「権利は勝ち取り続けるもの」というのがある。つまり、得た栄光などは守らなければならないのだ。失ってしまうことを防がなければならない。この意識はとりわけフランス、そしてアメリカなどといった「実際に自由を勝ち取るために血を流した」国において顕著らしい。とりわけアメリカは第二次大戦によって自分の覇権が確固たるものになると、それを失うことを「怖れた」。ファシズムの次は共産主義を敵とし、ソ連崩壊後はイスラムとテロを絶対悪とした。つまり自分の繁栄は「正しく」、それを脅かすものこそが「悪」なのだと。そういった思想の側面として、アメリカの資本主義社会が存在し、それによって抑制された弱者は犯罪を犯したり犯さなかったりして、そして権力がまた弱者を弾圧する。そういったアメリカの根本的病巣にこそ、アメリカ銃犯罪の、そしてコロンバイン事件の原因があるとムーアは主張しているように私は思う。


一方で、『エレファント』は、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』や『ラスト・デイズ』などで有名なインディペンデント映画界の巨匠ガス・ヴァン・サント(この紹介文はウィキを頼りに書きました私は全然知らないです)によって作られた、コロンバイン事件を「再現」というか「なぞっていく」ようにして作られたフィクションである。事件当日の学生の生活の様子、それは本当にどうでもいいほどに普通な学生の姿であり、ある少年は家族内の問題ごとに頭を抱え、少女たちはカフェテラスでダイエットとか男とかの話しをして、外ではラグビーっぽいスポーツが行われていて、また(おそらく)内気で他の女の子の輪に入ることができないので図書館のボランティアをする眼鏡の少女もいたりして、何とも「普通」の、どこにでもある学校の風景が、えらく執拗に描かれている。同じ場面を視点を変えて何度も映したり、時間軸を錯綜させてみたり、そしてひたすら学生の歩いていく後ろ姿を映してみたりして、正直言って「退屈」になりそうなくらいしっかりと普通の学校の様子を映している。この学校が事件に関して特別だったことは何もなく、そんな普通の学校で事件が起こったことに観ている私たちは恐怖を覚える。

そんな「日常」に時々挿入される事件の犯人たちの様子、これがまた普通なのだ。彼らは普通にいじめられ、普通に計画を練り、普通にパソコンで人殺しのゲームをして、そして普通にネットで銃を買う。そして彼らが学校に入って行くところがやはりいくつかの視点で映された後に、「それ」は起こる。

「それ」が起こってからは何の救いもない。悲鳴に溢れる図書館やカフェテリア、ゲーム感覚で人を殺す犯人たち(彼らの犯行の原因が「いじめ」であるという風にはあまり描かれていない、むしろ動機が不鮮明なところがポイント)、興味本位で何が起こっているか観に行って、あっけなく殺される人。最後のシーンは「え、これで終わり!?」という唐突さと、それゆえの救いのなさにびっくりした。そして何度も映し出される陰鬱な空と、やはり陰鬱なクラシックの調べ。前半の退屈なまでの平穏さによって終盤の救いの無さが強調される。

この映画はキャストに普通の学生を用い、特にメイキング場面ではそんな普通の学生たちが楽しそうにじゃれ合っている。そんな世界であの事件は起こったのだ。特別に歪んだ環境などではなく。これを「どこも一律に歪んでいるし、病巣を抱えている」と簡単に考えるかどうかは、というか事件の顛末や、それに対する意見や答えといったすべてのものは、完全に映画を観た人に委ねられている(これがこの映画が賛否両論な理由の一つである。もうひとつはやっぱり退屈だからなあ前半は。まあある意味「グランジ的」手法だよね。おっ、『ラスト・デイズ』と繋がった?)。



結局のところ、こういった凶悪な事件に対する特効薬なんてものはありはしないし、犯行の動機、事件の要因を探ることも困難である。こと少年犯罪においては、少年法による犯人に対する緩い刑やら、サブカルチャーの影響やら何やら言われていてもう訳が分らず、またこういった事件の例を持ち出して文化の規制を行っていく流れも存在するため、状況はまさに複雑極まりない。明日殺されるかもしれないし、またその殺す人の趣味のせいである文化が弾圧されるかもしれない、知識人は知識人ぶった小難しい分析を行い、弁護士は国によって様々な個性はあるがそれぞれのやり方でお金を稼ぎ、そして国や産業のトップは「気の毒に思う」「誠に遺憾だ」といったポーズをとる(それが真意がどうかは別として)。

ただ、それなりに説得力のある意見もある。それは「弱者」が犯罪を生むということだ。経済的に貧困な人々が集まればスラム街が出来るし、少数民族も「自衛と繁栄のために」団結する。いじめられっ子はその繊細さのようなものを糧に爆弾を作ったり銃を買ったりする。コロンバインの事件の犯人はいじめられっ子だったし、ロス暴動で暴れまわった黒人は貧しいものが多い。ムーアは劇中(?)で「弱者を生み出すシステムはアメリカの根源的病巣だ」みたいなことを言っていたが、これはやはり様々な国において各々の形態をとりつつ存在すると思う。これを克服することが犯罪の抑止につながる部分というのは大きいと思う。優れた社会保障制度と絶妙な倫理観の育成は確実に犯罪を減らす原動力となる。

事件の原因などがよく分らないだけに、それぞれの要因に対してそれぞれの解決法があって、それらは重なる部分も大いにあることだろう。私たちはそういう部分に目を当てるべきなのかもしれない。こういった思考の手助けとして、この二本の映画を観たことは大いに意味があったと言える。

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