2007.9.6
父方のじいちゃんが死んだのは6日のことだった。次の日地元で通夜があり、そして葬式があった。葬式でお骨を手に霊柩車に乗った。遺影も持った。よく知らない親族の人々が沢山やってきた。父方のばあちゃんが死んだ時も同じ場所で通夜葬式をした。
遺影のじいちゃんは定年前のもので、やたら若かった。生きてる内に最後に会ったときは、見るのが辛いほど衰弱し、体が縮んでいた。病院での寝たきり生活は精神を病むという。骨折で入院したものが最終的に鬱と衰弱の果てに逝去するのはよくある話だという。じいちゃんの場合直接の死因は肺炎だった。
死体となったじいちゃんを見る。それはまるで生きていないので、妙にリアリティに欠けて見えた。冷めたそれはまるで精巧に作られた実寸台のフィギュアのようにも思えたが、実際は数日前までこの体の中に命が入っていたはずである。
火葬場で骨だけになる。竹の箸を用いてそれをお骨入れに収納する。火葬場のスイッチを押すのは喪主なのだ。私もいずれと考えると恐ろしくなる、ニート的な観点からもそれ以外からも。
お坊さんの話はもっともだと思う。しかし、どこかそんな綺麗話を信じたくない気持ちもある。生きてる時が全てだ、死後の幸福なんてないから、だからこそ生きる幸せや残った記憶が尊いのだと考える。なんとなく極楽とかそういうのを考えたくない。だからといって私がじいちゃんのご冥福を祈らない、というわけにもいかないだろうが、でも、死後も幸せにとかそういうことをあまり考えたくない。ただ、お疲れ様ですと思うだけに留めておきたい。死後の幸せを思うよりも、生きているうちの記憶を重視したい。そういう意味で私は晩年のおじいちゃんに対して申し訳なかったかもしれない。その分今生きている人たちに申し訳なくないよう振舞うべきか。







