自己の剥離性・軽薄性の肯定を試みる
『何考えているか分からん』とか『本心が読めん』とか言われることがあります。
そんなもの私自身にもよく判っていないから、他人ごときに読めるものかと言ってみる。確たる自我が無いなら、自然としゃべる言葉はその地盤を失って宙を舞い、意味を失う。それを『真意が読めない』なんて言われた日には笑うしかない。
いつも『言いたいことは何だったっけ』と思いながら、その場に応じて適当に発言をするのは楽。昔から私は、適当にその場のノリで生きていくような軽薄な人間になりたかったので、今の自分の意思の表し方がよく判らないしゃべり方は結構気に入っている。こうやって文章にしたらある程度言いたいことが出てくるのだけれど、不思議とおしゃべりになると途端に自分の意識が混濁して、言いたい事が煙の中に消える。頭の中の煙。霧でもいい。
三月から四月にかけて、そんな状況が変化して、やたら人を嫌いになったり、色々憎かったりした。しゃべり言葉で他人の陰口などを言う事がしばしばあった。これはいけない。私の中の軽薄さが薄れてしまう。軽薄と言うのは、誰のためにもならないようなしょうもないものであるべきで、人を中傷するようなことは出来るだけ避けたい。要は深いことを考えなくても良いようには、物事に波風を立てないようにしたほうが楽だということで、詰まるところ、私が人の悪口を言うのは、そういった軽薄という名の平和を自分自身で破壊する行為であるから、よく考えたら避けないといけないことだった。今からは避けます。
悪口の定義とは、その言葉にどれほどの悪意が篭っているかによると思う。その程度によって馴れ合いの言葉か、それともナイフになるかといった感じに考えている。少なくとも私は『ギザギザハート』なんて表現は恥ずかしくもあり、バカバカしくもある。その場が良ければいいや的軽薄歓楽主義者を夢見る私の一意見。
憎しみ・恨み・嫉妬・蔑み・哀れみ・怒り……。そんなこと考えるのが正直面倒くさくなってしまったのがいつからだったか、今ひとつ思い出せない。もうすぐ二十歳なのに。







