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『Illinoise』 Sufjan Stevens(レビューに非ず。殆ど「ノスタルジアミュージック考」となっとります)

2010年04月14日 10:42

ツイッターの書き込みから殆ど引用。
IllinoiseIllinoise
(2005/07/05)
Sufjan Stevens

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『金字塔』 中村一義

2009年10月08日 17:20

金字塔金字塔
(2007/05/16)
中村一義

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1. 始まりとは
弾き「語り」。穏やかで土っぽいコードの上で、「こいつ何言ってんだ?」って感じのことをしゃべり続ける。鳥の声が精一杯の開放感。なお、この曲と全く同じコードと詞を用いて、今度はちゃんと歌っている曲その名も『金字塔』はこのアルバムではなくシングル『主題歌』のカップリングである。そっちの方はアコギだけでなく色々楽器が入っている。「誤解も真実色に」「理想も現実色に」染まる中で「そうだ。どうだ。」と。何かの予感を歌っているように思える。

2. 犬と猫
圧倒的な中村一義の「発明」。機械音声のカウントの後に入ってくる「どーう?」、それに続くフレーズの現実認識とその追求、攻撃、そして意思表明。「皆嫌う荒野」をひとりで行く決意。非常にオールドスタイルなトラックはザ・バンドとかそういう感じの土っぽいオルガンが特徴的。だがそれよりも特筆すべきはやはりドラム。後に「何であんなにリンゴスターを追求してたんだろう」とまで回想するほどのリンゴスターっぷり。絶妙のモタリとタム回し、バタバタした感じ、このゆったりした感じが非常に心地良いのだ。結構自在に動き回るベースや遠くで鳴るスライドギターなど、これが97年に現れた新人のデビュー曲かというほど渋い雰囲気。だがその上に乗るボーカルが圧倒的に新しいんだなあと。何歌っているかは分かり辛過ぎるが、その分既存の日本語詩的なメロディの制約を一切無視した節回しはかなり自由であり、歌と曲とドラムが一斉にシンコペーションする部分は彼の初期サウンドのとても重要な部分である。ファンクライクな裏声の使い方などやっぱり渋いが、そこに乗せるメッセージの辛辣さとのバランスが歪であるし新しかったのだろう。これが彼の「登場」だった。決して派手ではないが、しかし芯が強い。力まず、しかし無気力にもなりすぎず。他に似たようなものがみつからないゆったり加減と天然のヒステリックさの調和。

3. 街の灯
まったりとした弾き語りで川(江戸川?)の土手まで散歩して、向こう側の街の灯を見て物思いをして家に帰る。こういう歌に込められた悲壮感や厭世観って、理解出来てしまうと妙に気持ち悪い。エレカシも散歩を厭世的なニュアンスで使うが、それに近いものがある。引きこもりが散歩して町を眺めて覚える焦燥、妙な憤り、イライラ、諦め、そんなのが情景描写に混じって語られる。時々入るぼややーんとした音がまた昼寝感覚のサイケっぷりで、どこか頭にもやの掛かったような不安さを覚えてしまう。まあこの歌の主人公は撃ったり飛んだりする意志を持っている分幾らか力強いのだが。

4. 天才とは
ポール・マッカートニーがマイナー調の曲で見せる優美さにも似たメロディでもって始まり、シンコペーションの連続から一気にポップにゆったりと展開するのが気持ちよい。コーラスの可愛らしい具合といい、この曲はまさにビートルズ。歌詞にも出てくるし。中間部のスネア連打とともに舞い上がるメロディからソロに入ってまたコーラスとともに歌に入っていく展開が渋力強い。幾つかのメロディを自在に移動する曲展開、そしてそれを支えるドラムはタムの一発一発が本当に意外なところにまで張り巡らされていて、リンゴ・スター的なものを極め過ぎて「その先」まで行ってしまっているかのよう。偉大な先人たちと現代の才能の巡りを歌っている。「「今全てが溢れちゃって」なんて言うなって」という部分に、音楽そのものをどうにかして前進させていこうとする気概を見せている。

5. 瞬間で
短いインスト。次の曲のイントロみたいなもの。こういうの好きだよな彼。遊び心であり、きっとそういうのも彼にとっては凄く大事なのだろう。高い声と冗談っぽい低い声による軽いコーラス、そしてオルガンの軽やかなメロディ。ベースのうねりもポール風。

6. 魔法を信じ続けるかい?
軽やかなピアノコードのイントロに導かれて、少しくすんだようなコード感で時々舞い上がるメロディを輝かせる。そして、サビ前のブレイクから這ってはぐるぐると回転するようなメロディを美しいファルセットを多用しながら歌い上げる。タイトル的にラヴィン・スプーンフルのオマージュであろうためか、60sポップスでもアメリカ的な渇いた雰囲気を沢山含んでいるのが特徴。そして裏声から入るマイナー調で舞い上がるサビ後のメロディが突き抜けるように刺さる。止まってはロールしテンポ良く転がり回るドラムの素晴らしさ。素晴らしい何か(世俗的な幸せとは一線を画しているような)を実現する為の「魔法」を追い求める歌。「同情の群れはとうに無え」。歌が終わった後に付いてくる演奏やコーラスはビートルズ的演出だがサウンドはアメリカンブルース。

7. どこにいる
マッチを付けてタバコを吸いながら、あちこちを散歩する中村青年。多分小岩周辺をうろついているのだろう。引きこもっていた彼の「世界全て」を巡り、そして部屋に戻り次曲のスネアとピアノのイントロへ。小曲、というか曲かこれ?

8. ここにいる
6/8拍子のゆったりとしたアコギとピアノを主体にしたナンバー。メロディの伸ばし方に気品がある。中間部で新しいメロディが出て来たと思ったら急にテンポが8ビートになりメロトロン風味な音なども流れサイケデリックになるが、また再び安定したピアノのメロディに戻る、ここら辺の展開が絶妙だと思う。

9. まる・さんかく・しかく
教育テレビの曲のカバー。幼児性を全開にしたからっとしたポップに仕上がっていて、開放感と楽しさに満ちている。しかしサビ以外の部分は本当にビートルズみたいなアレンジで、特にジョージ・ハリスンのようなスライドギターが隠し味的にメロディを繋ぎ合わせていて美しい。芳醇な音を鳴らすオルガンといい、中期ビートルズを『Let It Be』期のビートルズが求めたサウンドで鳴らしているような感じか。まあこのアルバムの多くはそんな感じか。当然中村一義の曲ではないのだけど、コーラスやサウンドアレンジがマニアックすぎて凄い。

10. 天才たち
リズムボックスに乗って雑談。そして「いっせーのっせっ!」で次曲のイントロへ。

11. いっせーのせっ!
軽やかなギターカッティングから、跳ねるようなリズムに乗って進んでいく楽しげな曲。多重コーラスで展開する部分のソウルチックでさえあるメロディは流石。「地獄」を経験した彼だからこそ歌えるネガティブとポジティブの境目を越えていく歌。最後のサビ前のタメが憎たらしい。彼らしいあどけなさ全開のメロディの魅力が溢れている。

12. 謎
逆再生のシンバルから入るこれはこれまでと違ってちょっと不穏な感じというか、気怠い雰囲気がポップなメロディの後ろでざわざわしている感じ。静かな荒野で渇いた空気に砂がちょっと舞っているような。サビへ向かう展開部はジョン・レノン的な濁った曲展開、そしてサビで解放。サビは相変わらずポップだが自在に止まったり転がったりするドラムとともに激しくメロディが上下して、そしてブレイクで渋くキメる。変な楽器などを使っている訳でもないのに、渇いた音ばかりなのに濃厚なサイケを感じる。相変わらずジョージ・ハリスンなスライドギターやコーラスやオルガン、自由なドラムが合わさって高揚でも陰鬱でもない不思議なぼんやり感を作っている。最後は最初の歌の部分と同じ渇いた気怠い部分に戻り、そして歌詞も「この詞の最初に戻る」で締め。直線的に突き進むのではなくじっくりぐるぐる考えていこうという詞も確かに曲同様グルグルしている訳だ。

13. いつか
アコースティックギターと歌とコーラス、そして室内楽的な優しいストリングスで展開する繊細な曲。終盤に向かう新しいメロディからホルン登場が何かもう完全にポール・マッカートニーで素敵。「君の主人公は君だ」なんて歌っちゃう歌詞はいささか啓蒙的で鼻につくが、この「君」は外部であると同時に中村自身であると考える必要がある。……ああ、面倒臭いな彼の歌詞は本当に。

14. 永遠なるもの
『犬と猫』で始まったアルバムをこの曲で締める。イントロのシタールの後ろで自家薬籠気味なギャグを飛ばしながら「それでは、音楽、音楽」コーラスに導かれて冗談っぽく歌う引きこもりの風景から、一気にサウンドとともに舞い上がる、そのメッセージがなんとも悲痛。「ああ全てが人並みにうまく行きますように」だもの。この歌は中村青年が「状況が裂いた部屋」にいながら全世界に向けて語りかけようとする歌。『Hey Jude』的な雰囲気を借用して、狂気そのまま祝福に変えて撃ったり届けたりしようとする。ドラムはもう完全に『Hey Jude』のリンゴ・スターと化していて、というかもう彼は完全に自分がビートルズだとして歌っている、ビートルズの唱えた愛を彼の立場から解釈して、部屋に立てこもったまま歌っている、そのキチガイっぷりが祈りに向けられるという、ほぼ絶叫に近い祈り。一旦終わった後に続くまさに『Hey Jude』そのままなアドリブなんて完全に頭が逝っているとしか思えない。この演奏の殆どを全部ひとりで!?何がそこまで彼を思い詰めさせたんだ!?と思うことしきり(この後更に凄いスケールの『主題歌』が出てくるともう何も言えん)。そんな悲壮感を越えて「博愛」なる精神を発信しようとする彼の、凄く大切な歌。

15. 犬と猫 再び
「流石に前曲で終わると重いし、アルバムとしても気分としてもどうだろうな」という感じで作られたのだろう、ささやかなエンドロール。『犬と猫』からボーカルトラックを抜いて、オルガンが前に出たお陰でスパンプっぽさが増したトラック、そして「どう?」の後に響く拍手、自分の為の祝福。そして何故かマスオさん(本物)が叫ぶ「ボクの人生は、バラ色に変わったーっ!!」(家が近所だったんだっけ?)何という自己完結の極み。ともかくそうやってアルバムは終わる。

……のだろうと思っていると、ボーナストラックが入っている。10分を過ぎた辺りで、ひとりで二人分会話のやり取りをしながら(やっぱりこいつマトモじゃねえよ!)「もう一曲どう?」と弾き語りでブルージーな曲を披露。しかしコーラス部の舞い上がりっぷりは流石。演奏後色々としゃべったりしながらどっか部屋の外に出て行く。気持ち悪い奴だなあと思って、それでもまた10分くらいCDを止めずに放置していると突如、「パッパー」とか言っていきなり舞い上がっちゃってる『主題歌』のイントロ部分が僅か20秒ほど流れて、これで本当にお終い。『主題歌』はこのアルバムの後に発売されているので、これは予告編のようなものか。

中村一義の97年発売の1stアルバム。基本的な演奏(歌、コーラス、ギター、ベース、ドラム、ギターはおそらくリードギターにおいて外部の参加あり)を全てひとりでこなす、日本でも珍しいマルチプレーヤーとして鮮烈なデビューを果たす。もちろん他にもマルチプレーヤーは幾らでもいただろうけど、「引きこもりがバンドも組まずでも打ち込みエレクトロニカとかではなく「バンドサウンド」で宅録の延長からデビュー」というのはおそらく日本では彼が「最初」とは言わないけれど、ひとつの「始まり」だったのではないか。この後色々と出てくる宅録ミュージシャンの(っても七尾旅人とかくらいしか思いつかん)デビューへ続く道を造ったのは、間違いなくこのアルバムだろう。

その象徴性と言葉の強さ故に「97年世代」の代表格として名前を挙げられる彼だが、そのサウンドも精神性も他の「97年世代」くくりのバンドとはあまりにかけ離れてしまっているように思える。「こいつのロック史の中ではパンク以降は無かったことに鳴ってるんじゃねえか?」とさえ思ってしまいそうな徹底的なオールドロック志向、というか病的なまでのビートルズ信仰で、そこに「ポジティブも行き過ぎたら狂気になる」をまさに体現した精神性が乗る。それは彼が引きこもりという外部と遮断された環境の中で身に付けてしまった確固たる意思に基づいてしまっていて、そのブレの無い笑顔っぷりが本当に怖い。断言する。「97年世代」で一番狂っとるのはコイツだ!天然に敵う狂気は無い(「状況に裂かれた」故の天然ではあるが)。

このアルバムはそんな彼の天然で異形な精神に最も満ち溢れた作品であり、そこかしこに彼の自己完結した信念とかポジティブさとかそういうものが充満している。外側に対する攻撃性も「ボクはこう思うのにぃーみんなこう考えればいいのにぃー」って具合にどこかヘナヘナと、ひょうひょうとしている部分があり、「否定してやる!」という野心に満ち溢れていない分、余計に「外野・果てからの一撃」感が強い。そう、彼は「状況が裂いた部屋」という「最果てにて」音楽活動を始めた。

サウンド的には本当にビートルズが好きなんだなあっていうのと、特に「中期~ホワイトアルバム~Let It Be」あたりのビートルズを、なんというか更に「前進」させようと試みているような感じがする。おそらく当時の彼の中では彼こそがビートルズであり、彼がやる音楽はビートルズの進化した姿でなければならなかったのではないか。権威主義的と言ってしまえばあれだが、しかし結局他人、それも日本の引きこもりがビートルズになれる訳が無い訳で、しかしそれがかえって彼の音楽をビートルズではなく「彼」として存在させているのではないかと。ああ、書いてるこっちが気が狂いそうだ。

ソングライティングやコーラスにおけるポール・マッカートニー的センスも凄くいいけれど、ともかくドラムだよなあ。かつてここまでリンゴ・スターなドラムが存在したか!?しかもリンゴにしてはちょっと安定感が無いかなバタバタしてるなああでもリンゴ本人もそうって言えばそうかあ、って具合の愛嬌まで含んでいる。田中宗一郎を含め、多くの年齢層のリスナーがこのドラムに魅了されたはずだ。そしてタナソーはこのドラムが好きすぎだ。ビートルズのレコードのレビューで「リンゴのドラムが中村一義化し始めた、いや逆か」とか書くなんて、お前どんだけ好きなんだよとお前本当に編集長かよ偏愛し過ぎだよバーカ最高、という具合。買っちゃおうかな今回のスヌーザー。
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思い出シリーズ第四回:中村一義編

2009年10月08日 02:48

最初は「久々にくるり聴いたら良かったしなんか懐かしかったし、折角だからなんか書こう」と思って始めたこのシリーズ、完全に迷走しております。思い出関係ねえ(笑)ただの考察コーナーに成り下がってしまった(笑)でも始めたからには納得がいくまでやりたい所存でございます。

中村一義。97年組の中でもある意味一番存在感があるというか特殊というか。そもそもバンドじゃない時点でアレだし。でもやってる音楽は限りなくバンドサウンド、むしろどのロックバンドよりもバンドサウンドだったりするしで。そもそも他はバンドばかりの97年世代の代表四組の中で一人なのは彼だけだし、その「ひとりだけの音楽」で他のバンドと同等もしくはそれ以上の評価を受けている訳で何とも訳の分からない存在。そんな彼について、出来る限り何か述べてみたいと思います。

中村一義を語る際に最重要なのはその出自で、もう登場の仕方が圧倒的に特殊過ぎる。筆者は中村一義の二万字インタビューを読んだことは無いので酷く断片的にしか知らないが、少なくとも彼がいわゆる「引きこもり」から出発したアーティストであることが、彼を特殊な存在にさせている。……のだけど、単純な引きこもりでもないんだよなあ。どうやら彼の人生は特殊なことが多すぎて、何から手をつければいいのやら。

江戸川区小岩という実家の立地、両親のトラブルやそれに巻き込まれての虐待、地主の祖父母に育てられ、大学進学の為の金を使って機材を揃え、自室に引きこもって宅録に耽り、デビュー出来なかったら自殺を考えていて、でも何故かデビュー時には結婚していて、デビューは確か21歳で、デビュー直後雑誌に大きく取り上げられて。こんな不思議な人生を送っている人ってなかなかいないだろう。個人的には実家が裕福であったところは、彼が働かずに音楽を追究出来きるようにしたし、また彼のどことなくセールスや自身のファンの開拓などに無頓着な感じもそういうところから来ているのではないかと。また、こういった人生の中で彼が特殊な幼児性を形成し維持することが出来たのも彼の音楽に大きく関わってくる。

引きこもった彼は、自分の部屋を「状況が裂いた部屋」と名付けて(被害妄想的に見えるけど、きっとそうなんだろう。リスナーからは想像の及ばないほど酷かったんだろう。彼はことあるごとに「昔に戻りたくは無い」と言う)、そこで楽器や歌の練習、音楽研究、また様々な文化(音楽の他にもマンガや映画や本やその他諸々)を吸収し、独自の哲学を構築した。引きこもりが作る哲学なんて大抵歪でしょうもないものだけど、彼が作り上げた価値観は、まあ人目からすれば色々歪には見えるけれど、でも本人的には非常に信用出来るものだったのだろう、それを作品として自信を持って世に出せる程度に。

そして満を持して彼は世に出た。デビュー曲の鮮烈な冒頭「どう?」。ボブ・ディランが「How do you feel?」と尋ね、カート・コバーンが「Hello, how low?」と尋ね、そして彼は一言「どう?」そしてそれに続く言葉の強さ・辛辣さ、そして「何言ってんのこれ?全然分からない」感。60's~70'S的などっしりとした渋いロックを土台に展開される、極端にハイトーンで言い回しも複雑で裏声も多用し、言葉の音の響き方も非歌謡曲的、強いて言うなら桑田圭介だろうがそれよりももっと訳の分からない具合を、僅か21歳の青年がたったひとりで表現している。この訳の分からなさ。メッセージの鮮烈さと技法で新時代の旗手と評価され、また非常に成熟し切った音楽で評論家や「上の世代」のミュージックフリークのを強烈に振り向かせた。

そう、彼はライブハウスとも同世代のライブハウスに集まるような若者たちとも関係のないところからポンと出て来た。「町を背に僕は行く 今じゃワイワイ出来ないんだ」と言って立ち去り「同情で群れ成して非で通す(ありゃマズいよなあ)」とバッサリ、そして「皆嫌う荒野を行く ブルースに殺されちゃうんだ」と歌う彼は圧倒的に孤立した存在だった。泣き言ひとつ言わず、むしろ全ての欺瞞を通り越して真理をつかみ取ろうとする野心に燃えているようだった、それもひとりぼっちのままで、あの無邪気そうな童顔で。

そのスタンスのまま1stアルバム『金字塔』が創られる。97年世代の「僕たち若者」の声の代弁者がスーパーカーいしわたり淳治なら、中村一義はそもそもの巨大ないかんともしない雰囲気に向かって「どう?」から始まる疑問を叩き付けた。彼の歌で歌われるポジティブは全て彼の異形の人生経験を元にして創られる為、それを加味した時の説得力は圧倒的だ(まあそういう条件的な部分が通受けするところでもあるし敷居の高さでもあるが)。特にこの時期はまさに「引きこもっていた状態から何とか飛び出そうとしている時期」だけに、その重みやバックグラウンドとの密接な関連性が強烈であった。日常の情景描写の中にも意味が宿り、様々な示唆をしながらも、結局は最後に行き着く『永遠なるもの』のワンフレーズに辿り着くんだろうな。

「全ての人達に足りないのは、ほんの少しの博愛なる気持ちなんじゃないかなあ」

行動としてのスタートである『犬と猫』で始まり、理論としての根底である『永遠なるもの』で終わる(その後色々付いてくるけどさ)アルバムは強烈なメッセージ性とオヤジ受けを示した。

(『永遠なるもの』の動画貼りたかったけど無かった!)

そしてアルバム後に一枚シングルをリリース。もう「まさに!」って感じの歌。本人の主題歌だろう。

圧倒的な祝福感。ひとりぼっちで行く為には自分を奮い立たせなければならない。そういう苦痛と覚悟とそれでも前進する意志を強く感じさせる歌。そして、何で本当にこんなに素晴らしいんだろうと思う本人によるドラム。「青の時代を延々と行くのもまた一興だ」と本当に言えるのはそれでも生活していくことが出来る一握りの人だけ。彼はそれだけの実力を持っていた。ファンファーレとともに、彼が歩き始める。

続く2ndアルバム『太陽』では多くの外部ミュージシャンを起用。かのタナソーに「中村一義は『太陽』まで、正確には彼がドラムを叩いていた『魂の本』までが最高だった」と言わせて悔しがらせるほど。確かにサウンドは良くも悪くも安定し1stの衝撃のようなものは薄れたが、その代わりソングライティングは解放後の荒野を歩くような雰囲気がポップさと上手く合わさって力強くなった印象がある。アルバム冒頭の『魂の本』(何でこれも動画無いんだよお!)の渇いた荒野の空気を揺らすような力強さに震える。そしてデビューと同時期に結婚しておそらく彼を影で支えて来たのだろう妻・早苗さんに向けた優しい曲も増えた。彼は異議申し立て以外で外に向かってものを言うことを習得し始めた。

くそう『日の出の日』も動画無いのか。細野さん風味をぐっと力強くした名曲なのに。

美しいメロディに裏付けのあるポジティブなメッセージ。彼からは後が無いから言える類のポジティブさを感じる。そしていったいどれだけ『Hey Jude』を研究したんだろう。ポール・マッカートニーの一番勇敢な部分を引っ張って来るのが彼は本当に上手い。

しかし、「新時代の旗手」としてその斬新な部分を期待されていた為か、『太陽』はなんか評価低い部分も多い気がする。筆者は今のところ『金字塔』よりもこっちの方が好きです。外を散歩しながら聴こう!空気を感じながら。河原やらを行きながら。やばいですよ、これ。

で、その受けが芳しく無かったせいかどうかは知らないが、ここでまさかの契約切れ。しかしそれでも負けずに彼は新しいテーマを模索、そして発見する。再び「状況が裂いた部屋」にて曲を作り始める。彼が見据えたものは2000年そのもの、つまり「世紀末」だった。

インディからシングルをリリース。打ち込みやサンプリングを導入して変質していくサウンド。ゆとりを持ちながら、やっぱり圧倒的な祝福。「祝え!祝え!」と。祝福による混沌。彼の音楽の幾つかはそういうものを感じさせる。打算や暗い心からではなく、真っ直ぐな気持ちで鳴らされる、結果としての混沌。この辺の半ば天然のねじれ具合こそ彼なんだと思う。
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『NUM-HEAVYMETALLIC』 NUMBER GIRL

2009年10月07日 17:30

NUM-HEAVYMETALLICNUM-HEAVYMETALLIC
(2002/04/26)
ナンバーガール

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1. NUM-HEAVYMETALLIC
いきなりアヒトの絶叫号令。やっぱりこれ、向井に命令されてやってるのか。それとも……。曲本編はまさかの冷徹ダブ民謡。研ぎ澄まされているのにドロッドロに感じるディレイがかったギターとエコー掛かりまくりのドラム。スネアの音が響く響く。そして純和風メロディを素っ頓狂な声で聴かせるアヒトイナザワのボーカル。伸ばす音とそこに畳み掛けるエフェクトが緊張感を醸し出す。向井はアクセント(笑)「しょんべんもらして少年少女 ええじゃないかのやりまくり」純和風な猥雑さをぶち上げ、アルバムのいかがわしい世界観を鮮烈に叩き付ける。最後にイントロに戻るのも印象的。

2. INUZINI
前曲の余韻を打ち破るギターリフから一気にロールして、そして一声「やっぱりロックンロールやねー!」そこからまた重たい展開、そしてイントロと同じ展開から一気に加速して、暗黒祭り囃子へ。忙しい曲だ。和風の笛のように鳴ったかと思ったら急に凶暴化して祭りなリフを引き出すギター、そして展開の変化の度に自在に転がり回るドラムに圧倒される。向井の歌も絶好調でなんか楽しげ。ザゼンに繋がる感じの狂乱具合。

3. NUM-AMI-DABUTZ
緊張感高まるイントロの焦燥から、全ての楽器が一斉に重なり合い、そして拡散する。フリーキーに暴れるギターとドラム。えぐるようなフレーズを弾き続けるベース。そして向井の冷凍都市の光景を笑顔も見せずに暴露するラップ。何気にリズムギターもかなりヒステリックに曲の骨格を形成している。好き勝手転げ回るドラムが突如ちゃんとリズムを刻んだかと思ったらまたずれないギリギリのところで暴走しまくる。ブレイクでも暴れまくり。定型のリフを弾いたりグチャグチャになったり自由自在なギターのそして終盤の爆裂具合。ギターとかもうなんなのって感じ。ギターの大絶叫。そして最後にイントロと同じびしっと揃うところで鳥肌が立つ。

4. Tombo The Electric Bloodred
Yesの『Roundabout』のリフを借用し、ジャキジャキのポストパンクにしてしまった風の、漆黒の疾走ナンバー。幾つかの展開にあわせて様々に舞い上がるギターのヒステリックさ。あとシャウトとブレイクのメランコリックな歌を使い分ける向井。この曲はやっぱりブレイクが強烈。ぐるぐると陰鬱に回るギターフレーズの鋭さ。まるで救いの無い路地裏の風景、ブレイクでスピーカーをビリビリ鳴らしながら歌われる鮮烈な情景描写。「季節と季節の変わり目 恋をする少女だったときもあった」と、過ぎ去ったセンチメンタルな時代をちょっと振り返るような。でもその直後のギターの音の突き抜けずにガボガボ鳴っている具合がまた何とも救いが無い。このストイックな疾走とブレイクによる解放の快感はこの時期のナンバガだから出来た崩壊寸前のバランスの美しさ・鮮烈さがある。ひたすら背筋が凍り付くような冷徹な疾走具合。ナンバガで一番クールでどうしようもない曲だと思う。音割れしまくる最後の向井の歌とか。

5. delayed brain
ZAZEN BOYSに移行してからも度々演奏された数少ないナンバガ曲のひとつ。まどろむ薄暗いバーな雰囲気のナンバガ式ダブ。やはり自在に入ってくるドラムの気持ち良さと、気味悪く旋回し続けるギターのメロディ。とろんとしたキーボード。『ZAZEN BOYS 3』の世界観を先取りしたような、ディープな夜の雰囲気がある。半分過ぎた辺りで現れる新しいメロディ展開や静かに高まり効果的にずれるドラムの強烈さは、曲が大人しいだけに余計に映える。神経質でフリーキーなソロも気味が悪いし、突如始まるシンバルとキックの連発からまた落ち着いたリズムに戻るところの緊張感も絶妙。そして白眉はデイヴ・フリッドマンによる変なコーラス。違和感バリバリな向井式ディープファンクダブ。

6. CIBICOさん
いきなり疾走するベースラインに導かれて、やって来たのはまたギターの変なフレーズをバックに向井が叫ぶ不条理な雰囲気。きっちり叩くかと思うと急に崩れ、そしてまたもとに戻るドラムも緊張感がある。そしてブレイクとともにギターフレーズも変化し、ぐるぐるうねるようなそれを終止展開。普通の8ビート的展開になるが、向井の歌には深めのリヴァーブが掛けられて、やはり緊張感や居心地の悪さは継続。朗々と向井が歌うのはまあ盗人さんなどもいるけれど整然と営まれているCIBICCOさんたちの風景。歌が終わってから一分半もノイズ気味にソロを弾くギターと相変わらず反復フレーズを引き続けるギターの対比が何とも気持ち悪い感じを作りだす。

7. MANGA SICK
短いリフを伴って展開する、一応の疾走ナンバーだが爽やかさは皆無。ブレイクの取り方が後のザゼン風。徹底的に純情恋愛の先のどうしようもなさを暴露する向井、叫ばずに淡々と歌う。初期のセンチメンタルさがウソのような感じ。連続ブレイクからリズムチェンジして和風にぐるぐるした展開、そしてまた元のすっきりしない疾走に戻るのがクール。爆発せずに淡々と神経質に進行するのがなんとも切れ味があって良い。一番ポストパンクっぽいかも。和風ポストパンク。

8. FU SI GI
アルバム中でも最も気味の悪い曲。非常にダラダラとしたテンポ、今に求まってしまいそうなテンポで進行し、ディレイの掛かりまくったギターフレーズと淀んだリズムギターの対比でグチャグチャになる。サビでじわじわと盛り上がるのに、またドロドロに回帰するのが気味悪い。リズム崩壊でフリーキーなギターはビーフハート風?二回目のサビの後級に緊張して、そこからノイズを伴って徐々に加速していくところも不気味だが、その後緊張が破れてまたもとのドロドロに回帰するのも非常に気持ち悪い。

9. 性的少女
やはり短いベースのうねるリフを中心に組み立てられ、リズムギターも鈍くえぐるようである。淡々とした展開と神経質な爆発を繰り返した後、ブレイクしてセンチメンタルなメロディーが登場し、そこから一気に駆け出す。性的に染まってしまった少女が一生懸命センチメンタルな感情を忘れようとする虚しさを歌う、叫ぶ。少女が冷凍都市に呑まれていく。アルバム後半のハイライトだと思う。ギターの悲鳴具合がなんともグロテスク。この曲はリズムが暴走しないだけにかえってその悲惨具合が目立っている。

10. Frustration in my blood
これだけ割と『SAPPUKEI』期にもありそうな、このアルバムでは普通目の曲。一定のパターンのギターカッティングを伴っての向井の歌も普通。ただブリッジ部のギターの回転具合はこのアルバムらしい暗黒具合だが。そしてサビで急に突き抜けるメロディが登場。コード進行もなんかここだけポップだ。二回目のサビ前の盛り上がり、特にサビ直前にギターのかき鳴らす音だけ残る部分がなんともセンチメンタル。そして最後の疾走。リズミカルに五連を打つドラムなどもポップに弾けている。最後の狂想と言わんばかりに自在に膨れ上がっていくギターは、他の楽器が残ってからも名残惜しそうに残ってべろんべろんのフレーズを弾く。

11. 黒目がちな少女
かつてナンバガが映画『害虫』に提供したインストトラックを再利用して歌を入れ演奏を加えた曲。静かで穏やかな夕暮れの風景が広がるが、やっぱり向井はふらふらさすらっているようで、エコー全開で叫ぶし、そこにドラムが入って自在に転げ回る。穏やかな曲なのに最後の最後にやたら緊張感を加味し、空間を曲げるような重力を放っていく。整然とした景色が歪む。向井が絶唱する。アヒトはホーミーなどを用いている。そんなんも出来るん!?最後に一発シンバルも打って終わり、ハウリングを余韻にしてアルバムは終わる。


ナンバーガールの2002年発表のメジャー3rd、通算では四枚目、そしてラストアルバム。メジャー一枚目から『SAPPUKEI』に向けての変化も強烈だが、それからここへ至る変化もよっぽどである。向井は自分の中の変態性の向かうべき先をこの国の土着文化に求めた。仏教やら村社会やらお祭りやら、そしてそういった街の光景に潜む猥雑でどうしようもない部分、性を売り始める少女や年を経たたちんぼや。あとそんなんも知らずに暮らす子供たちやらカラスやらカッパやらコウモリやら何やら。それらについて冷静な目線で歌いながらもサウンドは非常にヒステリックに展開、特に向井による強烈なリフやリズム志向によって押さえつけられたバンドが放つフレーズの数々はどこか断末魔じみたヒステリックさを放つ。

そう、この向井とバンドの対立構造。これこそがこのアルバムの過渡期的な性格を形成もするし、また軋轢による激しさも同時に生み出している。このアルバムで行われた幾つかの試みは後にザゼンで「よりコントロールされて」登場する。このアルバムは、まあ「コントロール不能」とまで歌ってしまったバンドの性格もあったのだろうか、向井のコントロールが不完全であるし、向井もその不完全具合を作品の特徴として積極的に取り上げているように思う。不条理でフリーキーなギターフレーズが効果音的な役割を越えて、大いに絶叫のように響き渡る。

そして妖怪アヒトイナザワによる自在すぎるドラミングは、もうどこまでが向井の狙い通りなのかよく分からん感じがする。曲自体がかなり奇形的であることもあって、アヒトのドラムはナンバガ中、いや彼のキャリア中でも最も無茶苦茶であり、しかしそれでもギリギリ破綻しない具合、このスリリングさこそがこのアルバムの最大の魅力だろう。向井の指示かどうかは知らんが、きっちり合わせるところは合わせ暴走するところはひたすら限度を超えて暴走するドラムとギター、そして半ば機械のように反復フレーズを弾かされるベースと、曲に合わせて自在にリズムを変える向井のリズムギター、この四者が半ば崩壊しながらも、どうにか曲として成立しているバランス。本当にどこまでが向井の意図したものなのか分からないこの具合こそが、このアルバムにその後のザゼン諸作品と決定的に異なるカラーを与えている。ザゼンが向井の変態性を突き詰める為の異形なら、こっちはバンド総体としての異形のように思えるのだ。

センチメンタルさも完全に過去のものとなるが、これもまたザゼンほど徹底出来ていなくて、所々に過去を思う微妙な視線を覗かせる。ザゼンになると当たり前になってしまう猥雑な冷凍都市の風景を、まだ向井はどこか部外者らしさを残して眺めている。その辺もまた過渡期的なこのアルバムの性格を形成している部分なのだろう。

なんか前置きが長いPV。冷凍都市のドラマとうさんくささを感じよう!これ撮影とかやっぱゲリラ的にやってるんだよなあ。
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omoide series 第三回:ナンバーガール編

2009年10月07日 03:27

なんとなくスーパーカーについて書いたら、この企画の方向性が掴めたので、どんどん書けるうちに書きたいと思います。結局97年世代の四つについては全部書くのか……。

書くのが一番しんどそうなのは一番最後に残しておきたいので(笑)、今回はナンバーガールについてでひとつ。いや、この序列はあくまで筆者の現在の思い入れによるもので、そうなると中村一義が四つの中では一番「重く」なるので。あしからず。最新のスヌーザーを読むとどうも。ビートルズ特集良かったよタナソウ!やっぱりホワイトは満点だよねそしてことあるごとにリンゴのドラミングに中村一義を引き合いに出してくるタナソーの偏り具合がわたしは好きです。

という訳でナンバーガール。まあこれもまた一筋縄でいかないバンドな訳で。それにわたし、同郷だし。彼等が福岡時代に練習やライブをやっていた場所が近くにあるというだけで、この街に来た時は色々と興奮したものです。福岡はいい街。ただ音楽文化的には最近あまり勢い無い?最近あまりライブに行かないので分かりませんが。

ナンバーガールの誕生秘話などは多分その辺に転がっているだろうしそもそも向井自身がマンガに書いているのでそちらを参照(笑)ナンバーガールは他の三者(くるりスパカ一義)と比べると、一番出自がまともと言うか、非大学生でアングラ上がりという、そういう部分がまず他の三者と大きく異なるところだと思うし、彼等自身もその出自を隠したりせず、むしろ非常に大事にしていたように思う。そういう意味でこのバンドおよびその後の向井秀徳がアングラ的要素を多分に抱えたままメジャー的な立ち位置にいることは非常に納得のいくことである。むしろ福岡時代の方がポップ(笑)

ラストライブの最後に演奏された曲が初期のポップな名曲なんて、粋だ。センチメンタルだ。

初期のギターポップ路線はしかしUK的な流麗非力系のそれではないことが特徴で、やはりピクシーズなどを意図していたのだろうヘタウマ感と直線的などっしり感が備わっていた。まだ青春的な切なさを歌うに留める歌詞はしかし既に酩酊や街のことなどを扱っていた。そして妙に勢いがあって転がりまくるアヒトのドラム。そういえば向井のギターの音って初めから最後までずっとジャキジャキのままなんだな。

98年に上京。だから実は彼等はちっとも「97年世代」じゃない気もするが、まあ後付けの定義であって、それに確かにあの辺のバンドと一緒に扱うとしっくり来るし、これはこれでいいのだろう。

上京の後、何故か急に諸行無常を感じ始める向井の作詞。メジャーデビューしてから、曲に急に都会的な猥雑さの影が現れ始める。

向井手書きのマンガをベースにしたPVという、何ともインディチックなつくり。こういうマンガやらあとライブやメディアに置ける自己のキャラ付けやらにおいてもナンバーガール、というか向井は革新的な、というかキワモノ的な行動を示し、バンドを強く印象づけた。しかし曲の爽やかさとそこに潜む都会の影、そしてそれに屈しない若々しさ全開のビジュアル。これはこれでいい感じだったメジャー1st。結局福岡で録音したってのも爽やかさが多分に残っている理由なのかしら。

東京でライブをこなし、徐々に都市の病の虜になっていくナンバーガール。ここでちょっと福岡在住の人間として言わせて。福岡の街は基本的に天神と博多駅周辺の二つが中心部なんだけれど、この辺りには飲み屋などはあっても風俗店は無いわけ。あってもラブホ程度。風俗関係の店はほぼ中州に集約されていて(親不孝とかも性的にいかがわしい店ってあんまり無いし。まあ雑餉隈なんかもあるにはあるけど)、こう、風俗店は中州に行かないと見れない、って具合なんです。意外と福岡って性商売的に潔癖な街なんです(笑)ところがどうだい、東京の街に行ったら、とりあえず大きな街に行けばその一角に必ず風俗街がある。新宿も渋谷も池袋も上野も、どこにも歓楽街があって客引きなんかをしている。就職活動で初めて東京に行った筆者は正直幾らか面食らいました。ネカフェを探そうとしたら風俗街の中にいたりして。まあ多分全国的には繁華街と歓楽街がくっついているのは普通なんだろうけど、でも福岡にずっといるとそうは考えないんです。だから初めて東京のそういう街を見たとき筆者は思いました「ああ、これが向井が見た冷凍都市の姿か」と。これは筆者が勝手に考えていることなのですが、この福岡と東京の街のギャップが向井の詩的イメージに与えた影響も幾らかはあると思うのです。もしかしたらメジャー1stを福岡で録音したのも、まだ東京のそういう街に耐性が無かったからかもしれないし。まあただのファンの妄想ですけど。

アングラ上がりのナンバガにとっては、ライブこそが主戦場。よってライブパフォーマンスも熱狂的で、この辺はスーパーカーとはまさに対極的である。

『シブヤROCKTRANSFORMED状態』に至るまでのライブまでで、ナンバーガールの歴史に一旦ピリオドを打つことが出来る。ここから先は都市の暗黒にどっぷり染まり始める向井とそれに合わせて異形の変化を遂げ始めるバンドの時代に。
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『HIGHVISION』 SUPERCAR

2009年10月06日 14:33

HIGHVISIONHIGHVISION
(2002/04/24)
スーパーカー

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1. STARLINE
意外と鈍目の打ち込みイントロからギター、そしてシンセが入ってくると一気に浮遊感が増す。更に弦楽隊が入って歌も一音一音をやたら伸ばすので、曲全体が悠然と舞い上がっていく。終盤のリフレインでは壁のような歪んだギターが後ろで鳴り、ポストマイブラな雰囲気も。そして歌が終わると同時に曲もあっけなく崩壊して、終わってしまう。歌詞カードに記された二行の歌詞は遂に主語を失い、超然的な愛のメッセージ、もしくは体のいい語呂合わせ(深読みしてくれたら儲けもんっていう)と化し、ここにもう初期の憎たらしい「世代」アピールのスーパーカーはいないことを示す。

2. WARNING BELL
ふにゃーんとしたフレーズのフェードインからアコギが流れて、そして様々な伸びる電子音が入っていく、そのまま淡々と浮遊感を維持したまま進行し、それほど高揚することも無く収束する不思議な曲。アルバム中で一番レディへっぽいか、タイトルもアレだし。「ポン、ポン」と鳴る効果音が可愛くて好きだけど、曲自体は曖昧さと煌めきだけがずっと続いていくようで、未来空間に突入したような雰囲気を撒き散らしたまま終わる。バンドっぽい要素は皆無で、「こんな曲どうやってライブでやるんだろう?」と思ってたら、ラストライブでは幻想的なアルペジオと美しいツインコーラスが軸のアレンジで演奏されていた。実はそのバージョンの方が好きだったりして。

3. STORYWRITER
ジュンジ曰く「こういうのが一曲くらいあった方がいいかなと思って」な曲。ぼんやりした霧のようなSEから断続的にリズムが入って、ちょっと演奏が入ったかと思ったら細切れになり、そして一気に疾走する爽快な轟音に突入。ごめんやっぱり気持ちいいです。ただコードを半音ずつ下げていくだけの曲にとても高揚感のあるメロディーが乗っている。未来的なメインリフの煌めき具合、各種エフェクトもこの曲の雰囲気をキラキラ輝かせるべくうねり、そしてメロディの終わりのナカコーの伸びる裏声が突き抜けて美しい。理想的なポストシューゲイザーソング。タイトルや歌詞から、ジュンジの面目躍如といった雰囲気も感じる。どうやって気持ちのいい語感を作りながら上手いこと言ってやろうかニヤニヤしていそうで。何より、アルバム中で最も元気な姿を見せて跳ねるドラムが聴いてて妙な憂鬱を感じさせないところが凄く良い。アルバム中随一の「安心して気持ちよくなれるポイント」。バンドしてるからね。

4. AOHARU YOUTH
不思議な反復メロディと変則的なリズムの反復にエコーの聞いたボーカルがぼんやりと絡む、期待感を溜めさせる曲調。そしてタイトルフレーズの連呼の後ゆっくりと膨れ上がり、そして一気に弾ける。黄金の海原の上を舞うような、神々しく伸びるボーカルライン。幾重にも重なった声がうねるシーケンサーとともに一気に伸び上がっていくのは凄くキラキラしていてしかし虚無的で美しい。「果てには」という言葉が意図するところのサウンドが、まさにそのままそっくり鳴っているような感じ。意思を越えた、忘却の彼方みたいな雰囲気の曲。

5. OTOGI NATION
びにょんとした音で始まる、淡々としたリズムと淡々としたギターで進行し、サビでそのままのリズムで歪んだギターと反復するフレーズを投げかける曲。同じメロディの繰り返しを避け新しいメロディを出して来るところが意外、それでもリズムは一定なので変な安定感と平熱感がある。そして男女混成のタイトルコールの無表情具合、完全に音と化しているようで虚しくも美しい感じで良い。ギターの歪みもキメが細かく、まるで砂嵐のよう。ずっと同じ音を鳴らし続けリズム化したシンセが地味に特徴的。

6. STROBOLIGHTS
結局この曲がSUPERCARのひとつの到達点であることは確かだろうシングル曲。アルバムバージョンで追加された壮大さを喚起させる穏やかなイントロから後ろで弦を鳴らしながらも、あのピコピコした反復フレーズが迫り、そしてフルカワミキの、熱も意味も全く失ったボーカルが反復する呪文のようなフレーズで寒気がする。ギターはどこにも見当たらず、ただひたすら非現実的な、やたら煌めく幻想的な世界が広がっていく。心地良く鳴り響く歌は超越的な愛を歌っているような、限りなく無意味なような。ともかく全てを「愛」という言葉のイメージに託して心を空っぽにして浮遊しているような感じ。前半の反復と後半の反復も強烈な対比になっていて、単調な曲なのにどこかスリリングでさえある。均一なビートに声が重なっていく終盤、特にナカコーの声が重なった瞬間凄くドキリとする。そして終点に到着してはエコーとなった声のフェードアウトと残った小さなリズムが妙なあっけなさをもって余韻を作りだす。うーん、悔しいほどに完璧。SUPERCARのある意味薄っぺらいようなある意味深遠なような、そういうスタンスを端的に表現している。

7. I
遂に声まで妙なエフェクトが掛かり、バンドとしてのSUPERCARだった要素は完全に消滅。打ち込みのリズムに出たり入ったりするシーケンサー、振動のような反復フレーズ、エイフェックスとかその辺りっぽい可愛らしさと幻想具合。途中でこっそりと隠し味的にギターのアルペジオが入って来るのが不思議。そして普通の声コーラスとアコギが入ってから急に曲の輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。最後一分くらいかけて余韻。煌めかしい穏やかな音の中に全て消えていくような寂しさ。

8. YUMEGIWA LAST BOY
『STROBOLIGHTS』と並んで代表曲だろう。しかしこれまでの穏やかキラキラ感とは少し趣を異にしていて、こちらはどこか緊張感に満ちた、そしてリズムの強いものになっている。前半の漆黒の曖昧調からリズムが入って一気に盛り上がる、アルバム中で最もダンサブルなナンバー。シリアスなシーケンサーとやっぱりぷにゃぷにゃ鳴っている可愛らしいフレーズの対比が良い。そして何よりもミキのコーラスが入って以降の後半の繰り返しが聴き所。二種類のミキの声をバックに単調にクールに歌うナカコーの歌がしかし何故か非常に良い。やはりどんなにサウンドが充実しても歌があると何かこう、そういう効果が生まれるんだなというものを強く感じる。

9. NIJIIRO DARKNESS
コントラバスによる導入が重々しく、それに乗るナカコーの声もエコーが深くて怪しい。緊張感を保ったまま進行し、加工されまくったミキの声を舞い上げながら不敵にナカコーが囁く。アルバム終盤らしい重々しさのある、なんか破滅的な曲。神経質なリズムと穏やかな弦の対比がそう思わせるのか。途中から入ってくる左右の無茶苦茶なリズムとか、そもそもの不穏な主旋律とか、なんとなく次作を予感させる壮大な緊張具合。弦の余韻を引きずったアウトロもなんとも怪しくも切ないし。

10. SILENT YARITORI
泡のように沸き出すモコモコした音に包まれて始まる、アルバムの最後に相応しい穏やかで優しい曲。男女ボーカルで曖昧に始まったところから、硬めのリズムが侵入して一気に曲がロールし始める。タイトルコールのナカコーとコラースのミキの対比が淡く美しい。一旦ブレイクを挟んでまたリズムが入って以降はまさにアルバムのエンドロールといった趣。フルカワミキ自体のポテンシャルは正直それほど高いとは思えないのに、本当になんでこうまで強い包容力と幻惑性を有してしまっているのだろう。最終的にはリズムが引っ込む代わりにどんどんコーラスは分厚くなり、その穏やかな高まりがピークを迎え、そして穏やかに消えていく。歌詞カードのみに書かれている歌われていないフレーズがジュンジの「どや!いいシメやろ?」感を醸し出していてちょっと鼻につくこと(笑)を除けば、まさに完璧なアルバムの終わらせ方だと思う。完璧すぎてちょっと息苦しくもあるけれど、でもとりあえずSUPERCARはこれでひとつ極端をやり通した。


SUPERCARの(もうこの辺まで来ると片仮名でスーパーカーって感じじゃないな)2002年発表の4thアルバム。四枚目にして遂に行くところまで行ってしまった感がある。このアルバムと同じ方向で更に良いものを作ろうとしたらそれは一応のバンド性をも放棄せざるを得ず、レディオヘッドが『KID A 2』を作らなかったように、彼等もこの後バンドサウンドに回帰し、ニューウェーブな感触の強いアルバムを一枚残してあっけなく散った。まあそのあっけなさも含めてSUPERCARなんだろうけど。

益子樹をプロデューサーに迎えた本作、アマゾンの商品説明には「ギター・バンドとしての面影がほとんどなくなった今でもその本質はデビュー時と違えていない」と書かれているが筆者にはそうは思えない。彼等は間違いなく変質した。スノッブさの質が違う。「生意気で無関心な僕らの世代」を歌うスーパーカーはもうここには存在していない。ここにあるのは、ひたすら本質的な愛を追求しているのか、それともただの語呂合わせのついでにそれっぽい言葉を唱えているだけか、そんな歌の数々。「生意気で無関心」から「虚無的で美学信仰的」に大きく変化した。ある意味過剰とも言える音の装飾は徹底的に積極的な意思を埋没させ、ひたすら曖昧然とした美しさを引き出すために機能する。

仮に彼等が「KID Aフォローワー」の一組だったとしても、彼等はかなり意志薄弱的であるという意味でレディへとは大きく異なっていると言える。彼等のスノッブさは遂にひとつの虚無的な「果て」に到達してしまった感じがある。こうなってしまったバンドが長続きするのは確かにかえって不自然ではあるし、解散は仕方が無かったのかもしれないと思える。しかしこのアルバムにはそういう、バンドの維持などを全く考慮に入れないことにより生み出されたひとつの掛け替えのない美学がある。それは他者が簡単には真似出来ない、「この時期の彼等だけの」特別なものであるように思える。つまり、このアルバムのフォローワーはそういう原理的に、よほど身投げをしない限りは決してこのアルバムの目指した精神的方向性において、このアルバムには勝てないと筆者は思うのですがどうか。

ラストライブの『WARNING BELL』。アレンジ的には『ANSWER』的であるがそれにしても良いなあ。センスの大勝利って感じ。緊張感に満ちている。『HIGHVISION』の欠点を挙げるとすれば、サウンドの構造的にこの動画のような緊張感が生まれ得ないところか。だからこそその補完の意味合いも込めて彼等はもう一枚アルバムを作らなければならなかったというか、ねえ。
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思い出シリーズ第二回:スーパーカー編

2009年10月06日 05:00

くるりについて時代も含めて考えるなら、どうしても同時に考えなければならないアーティスト、ナンバーガール、中村一義、そしてスーパーカー。いわゆる「97年世代」の中核と言っても過言ではないはずなこれらの中から、今回はスーパーカーについてだらだら。

スーパーカーはなんか本当に不思議なバンド。何で青森の方から出て来た田舎者四人がそのくせ初めから都会的なスノッブさ、しかも刷新的なそれを持ち合わせて登場し、そしてどんどんそれに磨きをかけていくことが出来たのか。そう、このスーパーカー的なスノッブさこそがスーパーカーの全てと言っても過言ではないし、彼等自身もその方向性から一歩も外れること無く邁進した、音楽性も、歌詞も、ライブの仕方も、バンドの末路までも。

聴けば聴くほど全国のギターポップファンが嫉妬するだろうデビュー曲。インディーで活動していた同時代のバンド達も大いに嫉妬しただろう「ええっ!?何でこんなやる気無さそうな奴等が、こんな平板で簡単な曲でデビュー出来るんだよ!?」と。いやしかしその「やる気無くて平板で簡単」こそがスーパーカーの重要なポイントであった。この曲の時点で既に既存のいかなる日本歌謡、及びそれに組み込まれてしまう類のロックミュージックとはまるで方法論が違っている。

それで満を持して発売されたファーストには、当時のロッキンオンジャパン編集長にしてアンチヴィジュアル系の筆頭・山崎洋一郎とやっぱり日本の「ダサい」ロックを文化的根底から否定したいスヌーザー編集長・田中宗一郎の二人がライナーを書く。要するに、スーパーカーのデビューはどことなくストロークスのデビューに近いもんがある。「脱大衆的なカジュアルさを求めた一部メディアによる着火」って感じ。どっちも成功しているんだから、こういうメディア先導感は否定しがたい。もっとも、メディアの期待に応え得るだけのバンドの能力あってこそだが。

歌詞や歌のメロディ以外は完全に洋楽インディギターロック(っていうかジザメリ)の方法論のみで作られた19曲。そしてぼそぼそとした平面なボーカル、歌詞を詰めたりせずにゆったりと気怠く歌うそれは日本語の持つ平坦な感じと相性がいい。メロディの抑揚もなんかだるそうで、ともかく「バンドやってもてたいぜ!」みたいな情熱を一切排した、そんな具合。そしてしたたかに「いやぼくたちの世代ってこんなんなんで」としれっとしている歌詞。

何故かデーブ。それにしても、新人でこのPVって、相当優遇されてるよなあ。このバンドのデビューがストロークスと同じような狙いであることがよく分かるPVだと思う。

サウンドを広げていくに当たってギターを工夫するとか曲調をどうのとかではなく、さっさと打ち込みを導入するというのもなんともサバサバしている感じで彼等らしい。

この打ち込みのチープさ、「とりあえずまたただのギターロックをするのも馬鹿らしいからちょっと工夫してみたよ」って具合。「手抜きなんて当たり前」って感じで演奏力を度外視した平板なサウンドが何とも心地良い。この辺りからドラムがリズムマシーン化し始める。「踊れるものを作ろうとしたけど上手くいかなかった」とナカコーが述べる、打ち込み要素が入りながらもわざわざアルバム全編にレコードノイズを混入させローファイな出来の2nd。そしてその後、それまでのストックを清算すべくリリースされる二枚のアルバム。どの曲も本当にセンス一発って感じで、しかし悔しいけれどそれがシンプルかつ的確で良いんだよなあ。

一番笑えるPV。本当にスーパーカーはヴィジュアル的に恵まれたバンドだった。

ここまでがローファイで可愛らしく憎たらしくスノッブなスーパーカーって感じ。このやる気無いスタンス、あと時々歌ったりもする女の子ベースは後発の多くのギターロックバンドに模倣されただろうけど、でもあまりサウンドが初期スーパーカーのフォローワーっぽいバンドって表に出て来ない。割とやってることは普通だから埋もれてしまうのか。

ともかく、ここまでが「スーパーカー」で、ここより先が「SUPERCAR」って気がなんとなく。良くも悪くもここから大きく変化していくような。持ち前のスノッブさもまたサウンドの変質によって変化していく。
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『THE WORLD IS MINE』 くるり

2009年10月01日 13:43

圧倒的文章量につき閲覧注意。面倒臭い内容ですいません。
THE WORLD IS MINETHE WORLD IS MINE
(2002/03/20)
くるり

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1. GUILTY
ダウナーに力尽きるかのようなドラムが一瞬鳴った後にゆっくり広がる、レディへやジムオルーク以降って感じの虚無的なアコースティックの世界。気怠げに歌う歌も身も蓋も無い内容で、えらくボロボロな出だしと思ったら、アルペジオから一気に高揚、スネアやギター、ベースの雨、雨、雨。そして一気に世界が飛び出し、美しいコーラスと雄大な音の海へ。でもそれもやがては止み、また元の気怠げなアコースティックに戻る。やたら伸びた音が後ろでじわじわと鳴り、だらだらと殺風景を広げたまま次の曲へ。

2. 静かの海
およそ6分半もかけてひたすら動的な感情を薄めていく、虚無なエレクトロニカ。全体を覆い尽くす深いリヴァーブが何もかもを薄めてしまうし、左右や奥からやって来る様々な音情報もその曖昧さの中でひたすら「ああ、なんか鳴ってるなあ」という感じを広げていく。前曲以上にひたすらだらしなく音を伸ばして、聞く者をひたすらぼんやりと、ぼんやりとさせる。ああ、うつろうつろ。鳴り止まない電子音。何気に低音もぼんやりと効いてくる。昇天する電子音の後、次曲のイントロがイン。

3. GO BACK TO CHINA
なんともどこの国籍かよく分からないが、多分西洋ではなくむしろアジアなんだろうって感じのギターリフが自由自在にその身をウネウネと動かす、このアルバム初のタイトなロック曲。しかしそれでもそのリフの魑魅魍魎具合とそして何より明確な展開的オチを持たない曲やメロディのせいで、前曲までの虚無感は失われない。ベースもドラムもかなり細かくファンクにウネウネするのに、やっぱり気持ちは空っぽみたいな、そんな不思議な感覚がある。と同時に、くるりが独自のエスニックセンス(もはや京都や東京に留まっていない感じ!)を派手に電化した記念碑的な曲でもあるかもしれない。ひたすら音が鋭く若干もたり気味にロールするもっくんのドラムが最高に気持ちがいい。もっくんお疲れ!

4. WORLD'S END SUPERNOVA
5. BUTTERSAND / PIANORGAN
繋がってるので一曲扱いで。先行シングルだけど、その曲の雰囲気がアルバム冒頭から続く虚無感を妨げないどころか、むしろ積極的にブーストしていることが凄い。モコモコする電子音、逆回転のシンバル、輪郭の曖昧なキーボード、遠くで世界の果てのように鳴る電子オルガン、そして打ち込みによる無感情なビート。ボーカルも重ねる部分とシングルの部分とをはっきりと区別し、シングルのところは「僕ら」若者のやるせなさと寂しさを、そしてサビではそういう感傷を抱かなくてもいいようにひたすら踊る機械になって、それがまた何とも感覚ばかりを先鋭化させて寂しい。二回目のサビで一気に開けた世界、その中に降りてくるミドルエイトの歌詞の身も蓋も無さがもう、なんとも残酷で、ここではもう「踊る」ことによる快楽性すら信じられなくなって、ただ感情を薄める為にひたすら身体を動かすのみになっている。そんな感覚を抱いたまま「どこまでもいける」だなんて。PVにも出てくる淡い海岸のような冷えきった感情をダンスに突っ込むのがもう随分と寂しくて、だからそこから繋がってくる長いインストの部分はひたすらその言葉を失った微妙な反復の感覚を描写するように、点々と電子音を垂らしているような気がする。最後オルガンが前面に出て来るところなど、なんかダンスフロアから本当に忘却の果ての世界にやって来たようで、何とも心細くなる。

6. アマデウス
前曲で辿り着いた忘却の果てで頼り無く旅をするような、そんな感覚の曲。印象的なピアノはずっと同じ音を鳴らし、ドラムを排した曲の中でリズムとして機能している。メロディはチェロとコントラバスとそして頼り無くて曖昧な岸田の歌だけ。優美な弦楽隊も先程までの遠くで鳴る電子オルガンと同様の奥行きだけがある世界のために使われて、その質感は情が無くて寂しい。言葉数が少なくて隙間が多い歌が、まるで微妙な感覚を最小限でなぞるようで切ない。サビでリズム良く言葉数が増えると、虚しいけどそれでも仕方なく、当ても無く歩いていくような光景が広がる。

7. ARMY
モノトーンな幾つかの単調なアルペジオと機械的なリフの二本のギターの間をぼんやりと岸田の歌が泳ぐ、濃厚なサイケソング。空虚な世界がこちらを押しつぶさんと浮上してはまた戻っていく、その様はどこか穏やかな波のようでもあるが、それにしてもこの音感覚は危うい。ひたすら明確な言葉を無くした感覚が穏やかな発作を繰り返すような。ボーカルがリヴァーブを纏って伸びては、ふっと消えてしまうのがなんとも痛々しい。そしてこの曲はベースが凄い。反復と上昇をひたすら繰り返して、気味の悪い感覚以外何も語っていない!次作『アンテナ』の『黒い扉』など同系統の曲と比べても、この曲の気持ち悪い虚無感と悪夢感は圧倒的なように思える。岸田の歌詞も言葉数少なく、何とも不安げで不吉。曲が終わった後に次曲に繋がるSE。ジリジリとしたセミの声、往来、空っぽな夏の風景。

8. MIND THE GAP
突如バグパイプを伴って入ってくる、謎の民謡的高揚。力強い打ち込みのリズムや数々のSEが盛り込まれ情報量は多いけど、それらのどの感覚も機械的で、この21世紀的なエレクトロ民謡もやっぱり民謡的な和やかな感じは希薄。そして切り替わって、急にプラットホームのおしゃべり。外国人がしゃべる日本語っぽく聞こえるこれも機械音声で、とことん電化。そしてまた祝祭へ。なんとなくバグパイプの感じが中村一義の『ハレルヤ』っぽくもある。

9. 水中モーター
ギターもドラムも淡々と進行するギターポップ、の上に乗っかるのがボコーダー通過済みのボーカルだったりして、また電子音もうようよしていて、やはりどこか変、不思議な雰囲気、それを延々と7分続けるこれも、ある意味ではエレクトロを通過したサイケと言えそう。サビの佐藤の通りのいい爽やかな声も深いリヴァーブと電子音にまみれて不思議な感じ。二回目のサビからギターの調子が変わり、そしてこの曲唯一のドラムも反復を止めリズミカルに転げ回る、がそれもすぐ終わりまた延々と続く反復に。4分台のところで薄いサイケデリアを纏ってセリフが始まるところでまた緊張をチャージして、そしてそこから曲が終わるまでの2分半、延々と同じギターリフ、リズム、そしてたまに降り注ぐシンバル音の砕け散ったようなキラキラ、この気の遠くなる感じ、特にリフがポップで朗らかなだけに、その永続感がなんともうだるような倦怠感とかぼんやり海を眺めている時の意識の拡散具合とかそんなんに重なってぼんやりぼんやりしていい感じ。ああ、うつろうつろ。

10. 男の子と女の子
前曲の電子音が消え去った後に、ごく普通の、生々しいアコギの音が入って来るので少しどきっとする。そして今作で一番素直に岸田が朗々と歌い上げる、その音の伸ばし方がなんとも身近な感じ。気が抜けている感じ。なんか疲れてのんびりと歌っているようにも感じる。他の楽器が入って来てからもアコギの響きはあくまで中心にある。この曲だけエレクトロな風味付けが全く為されていないので、岸田の歌がぐっと浮かび上がってくる。けだるくメロディを持ち上げたり落としたり。歌詞の「僕達」という視点の月並さを眺める部分とサビでの「僕」のちょっとした切実な願いが交差している。地味にギターがアメリカン。

11. THANK YOU MY GIRL
シンプルで爽やかなギターロック、だけどこのアルバムの虚無フィルターを通すことで劇的に切なくなったギターロック。わざとだろう音のくすみ具合や曲全体のリヴァーブ懸かってうっすら淡い感じ、そして重ねまくって輪郭のぼやけた歌などがやはりこのアルバムを通した虚ろな感じをキープさせている。本当にシンプルな曲展開もまた絶妙に切なく、そして高らかに舞い上がるコーラスの爽やかさ・美しさがとても気持ちがいい。初期スーパーカーをぼんやり眺めているような、そんな切なさ。

12. 砂の星
野外の音なんかも交えてのんびりと展開する、可愛いアシッドフォーク、って言えばいいのか。三拍子に乗ったのんびりメロディが民謡っぽい・京都っぽいが、一度だけマイナー調になる部分のメロディや歌がとても切ない。曲中ずっとぼわあんと鳴り続ける音と点々と垂らす木琴の音がとても幻惑的。というか要するにキセルだよな、これ。どこかとても寂しいところをぼんやりと旅しているような、でもそれは案外近くの海岸だったりしてという、なんかそんなスノッブさの漂う曲。確信の無い感じがなんともユルユル。ボートに乗って最後の曲へ。

13. PEARL RIVER
ゆったりとボートを漕ぎながら進む、ゆるくぼんやりした世界の旅であるところのこのアルバムを閉じる、一番うつろでぼんやりした曲。ちょっと暗めの民謡っぽい、子守唄っぽい歌をシンプルなオルガン、そしてあちこちに拡散していくボーカルエコーを引き連れ、ボーカル自体も定位を左右交互に変えながら、非常に曖昧に音を伸ばす。そして二分半ほどで歌が終わると、後はひたすら残ったボートを漕ぐ音、流れる水、鳥の声などが二分ほど延々と続く。何か変化したりすることも無く、延々とランドスケープな音楽が垂れ流され、それがふっと途切れてアルバムは終わる。要するにレディへで言うところの『Kid A』の『Motion Picture Soundtrack』みたいな感じだろうが、しかしレディへの方は仕掛けがあるのに対し、こっちは何も無いのがなんか、それはそれで不気味。ぼんやりとした日常の風景は仕掛けも無くなんとなく続くという、そういうスノッブな気持ちだったのかなあ。


くるりの2002年発表の、メジャー四枚目のアルバム。前作『TEAM ROCK』制作後のライブで岸田と佐藤のバンド史上最大の仲違いが起こりバンドは解散寸前まで追い込まれるが、大村達身の加入でなんとか持ち直したくるりはこのアルバムにて初めて四人になる。しかしこのアルバムのツアー中にドラムの森信行がなんかもうバンドに対して疲れ切っていたみたいな感じで脱退して、くるりはその後ドラム探しの大変な時期に突入する。

と、こうやってバンドのバイオグラフィーを並べただけでも、とてもこのアルバムに見合った物語があってなんとも。下手なサブカル漫画よりもよっぽど胸が痛みそうになる。後に岸田が「あれは緩い出来だった」と言ってのけ、そしてもっくんの脱退を控えていたこのアルバムはまさに、くるりが一番若者的に象徴的で悲惨でしかし貪欲だった頃の記録として非常に重要である。

アルバム全体を覆うのは明らかにダウナーな空気、意志薄弱な、ひたすらうつろな雰囲気である。前作で『ワンダーフォーゲル』や『ばらの花』『リバー』などで様々な表情を見せたくるりが噓のように、このアルバムは全体の雰囲気が気怠げである。基本は「エレクトロニカを通過したフォーク・トラディッショナルソング」といった雰囲気で、それが移し出す風景は余りに逃避的でうっすら悲しげである。プロダクションも前作の都会っぽい感じから随分変わり、どっちかと言えば『図鑑』の何曲かのぼんやりした曲を更に発展させたかのようである。そしてそういったぼんやりとうっすらと寂しい雰囲気をダンスに乗せてしまった『ワールズエンド・スーパーノヴァ』は、そりゃあもう様々な層をくるりの方に振り向かせ大絶賛され、言わばこの時代最大の「模範解答」とも言えそうな存在感を、未だに保ち続けているのである。

「ぼんやり」「うっすら」「悲しげ」「うつろ」「虚無的」など、ともかくこのアルバムのあらゆる箇所からこういった感覚が導き出されている。音の感触も、歌詞の質感もこの方向性に全面的に沿っていて、それは幾つかの世代的・時代的な性格すら帯びてリスナーに包括的なメッセージを浴びせる。そう、時代。おそらくこの時期のくるりこそが(もしくはこのアルバムから『アンテナ』に至るまでの過程こそが)、最も時代にコミットメントしくるり自身のアクションや作品も時代や世代の象徴となってしまった時期であろう、とわたしは思うのです。

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思い出シリーズ第一回:くるり編

2009年09月26日 02:24

なんとなくここに書く(書けるほどの)ネタが最近無いもので、こんな更新を思いつきでするようになってしまいました。まあいいか。

最近は新しい音楽にのめり込むこともぐっと少なくなり、むしろ音楽を積極的に聴くことが減ってしまい、何だか黄昏的な何かを感じているのですが(笑)、遂にそんな視点でもって様々なものについて語ることが出来れば良いなと思うこのコーナーでございます。レビューなどではなく、ごく個人的なことをアバウトにフリーキーに書ければなと(笑)

そんな第一回、くるりでございます。というかくるりのPV観ていたらなんとなく淡い気持ちになって、こういう更新をしようと思ったのですが。

くるりと言えば、最近もアルバムを出し、ライブもするようだし精力的に活動をしているようなのです。その演奏や作曲センスは円熟の域に達しているようで、安定して良い作品を創っているようです。
魂のゆくえ魂のゆくえ
(2009/06/10)
くるり

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ただ、確かに完成度の高いアルバムだと思うのですが、個人的にあまりのめり込めないのも事実なんです。実はわたしこのアルバム、パソコンに入れてから二回しか聴いてません。

それでさっき、ふと思い立ってくるりのPVを幾つか観たのです。それらの曲がもうそれなりに「昔」であることに気付き、わたしは何と言うかじわりとした思いをしたのです。

くるりは大学生バンドから発展した典型的なバンドであり、色んな意味で大学生的なセンスに満ちたバンドだったように思います。

濁ったコードで日本の情緒を取り込みつつもどこかだらしなくもいかんともしがたい学生然とした雰囲気を全体的に醸し出していた初期。沈殿したフラストレーションが一瞬ぶわっと舞い上がるような、そんな良さがあります。しかし良く聴くと本当に色々凝ってるよなあ。このぐにゃっとして抜けきれない感じがインディらしくもありしかしなんとも身近で、そういう魅力がありました。岸田ギター上手いよなあ。


そして上京してデビューしてテンパる(笑)この困惑と絶望と被害妄想感、みっともなさが攻撃性になり、そして突き抜けた格好良さになるのは、学生のクソな気持ちを代弁しつつも圧倒的な説得力があったものです。そう、こんがらがった大学生は七面倒だ(笑)
あと9mmのこの曲のカバー反対!分かり易過ぎるしなんかあんまり頭良さそうじゃない(笑)
この曲のアウトロの迷走具合とか、やっぱり当時のくるりだからこそ出来た業だよなあ。


しかし大分東京にも機械にもこなれてきて、急に洗練されるくるり。レディへ以降のエレクトロニカ導入キラキラ空虚で切ないという学生ロックの一大潮流の日本における重要な地位をスーパーカーと分け合う。ここにきてくるりの音楽の想定する「若者」の概念が大分変わってきます。「なんか駄目な大学生」から「下北沢的なスノッブさを愛する若者全般」へ。くるりの持っていた切なさの質もまたそういった具合に変化していきました。
あとこのセンチ過ぎる曲をどう民生がカバーするのかは結構興味あります。


で、そういう系統の極北。賢い大学生らしく情報を集め再構築して、という大学生音楽・若者音楽の、もう皆が羨むような理想を強烈に曲とサウンドにした名曲だと今でも思います。切なさは空虚さにどんどんと取り込まれ、ひたすら淡くて美しい光景を求める。もちろんそんなのを本気で志向していたらそれはサブカルという形で世の中の隅に沈殿することになり、やっぱりどうしようもない、まあとりあえず踊ってみるかと。やっぱり若者らしい彼等。その後ドラム脱退でバンドが一時的に崩壊するところも含めて、一番くるりが切なくて虚ろだった時期だと思います。

しかしくるりは復活する。なんかやっぱり大学生らしいいかんともしがたさと、その割には妙に力強くて芯のしっかりした、しかし微妙な情緒も忘れないサウンドを持って。ついでに外国人ドラマーも連れて来て!

クリストファーがロックンロールで客を煽り、みんな盛り上がる。若者の高揚!何よりもクリストファーの見た目無茶苦茶に身体を揺らしながらもバカテクなドラムがまた、向こうの国の学生バンドっぽくもあり、味気なさと時に同義のプロっぽさからも上手いこと逸脱していて非常に良い。何よりもこの曲自体、岸田の歌詞の「僕たち」という「うだつの上がらない若者全般」を歌い上げるような感じ、どろりとしながらも格段に逞しくなりそして学生的な狡猾さとプロっぽさのせめぎ合いが熱い。空虚な『World's End~』からか弱くも力強いこの曲への転換というのが、どれだけわたしたちの世代の音楽好きな若者にとって意味が大きかったか!「いつかは想像を超える日が待っているのだろう」!


そしてこの曲でまた、岸田のポップソングのセンスも完成を迎える。軽快さと反復による切なさ、そして歌詞の微妙な言い回しによる「僕たち若者」の切なさや繊細さをポップに舞い上げる業。そういった要素はともすれば繊細の果ての何か物足りなさに行き着いてしまいそうなところ、それをクリストファーのドラミングが心地良い具合に転がり回って払拭する感じがこの曲の幸福なところだと思う。

そしてちょっと悲しいかな。この曲でくるりのポップソングは本当にひとつの「完成」に達してしまった気がするし、「若者」に対するくるりの微妙なスタンスもひとつのすっきりしたところを迎えてしまった気がする。

これ以降のくるりが詰まらんとか、そんなことは全然思わないし、むしろどんどん岸田は職人的ソングライターになっていくし、色々とやってバンドとしても上手くやっていると思う。けれどどこか寂しく感じてしまうのは、なんというかもう岸田やくるりが「混迷する若者の気持ち」を混迷した感じに歌わなくなってしまったことが大きいように思うのです。『NIKKI』周辺では妙に爽やかぶってみたり、『ワルツを踊れ』ではどこか京都時代の感情の動きを大人になった岸田がトレースしているようでもあり、そして最新作『魂のゆくえ』ではもうなんか、くるりは完全に「若者の代表」から離れ、「若者の微妙な感情を歌う大人」になってしまった気さえするのです。いや、人間歳を取るからそれは仕方が無いことだし、むしろそういったくるりの若者に対する距離感の変化はある種理想的にも思えるのですが、しかしやっぱりどこか切ないと思ってしまうのです。


特にこの曲の、まるで京都~『図鑑』辺りのくるりを優しく見つめるかのような情緒と優しさ、そして過ぎ去ったものを眺める切なさが溢れている具合が、聴いていて、かつてくるりに熱狂していたひとりの人間として、非常に、非常に感傷的になるのです。妙にあっさりした曲展開も、最小限の展開で最大限の切なさを生み出すその極意を「完全に分かってしまった」といった感じがあって、何とも切なくなるのです。そしてその切なさは、何と言うか「何でそうなってしまったんだよ!」っていう感じではなくて「うん、そうだよな、きっと大人ならそうすべきなんだよな」と思えてしまう感じなんです。
ちょっとアレですが補足しますと、わたしはこの曲が凄い好きです。大人になった、ポップの極意を掌握した岸田繁は、これから細野さんみたいになっていくのでしょうか?うん、それがいいと思います。そういう彼の創る曲はきっと、かつてくるりに熱狂的にはまっていた「若者」だった人達を、コーヒーや酒の苦みのようなもので優しく迎え入れてくれることでしょう。「若者を見つめる大人」になった岸田繁、いつかはそういうポップの超傑作を創ってくれることを期待します。しかし何故だろう、本当に切ない。

下手をすれば今のくるりの方が今のピロウズよりも年取って見える、それがきっとくるりの一種の業であり、そしてこれからのくるりの向かっていく先を少し示しているのでしょう。ああ、何かそれは本当に、切ない。大人になるって切ないなということを、くるりというバンドをずっと見ていると思うのでした。

あとエディは本当にピアノが上手過ぎるなあ。
しかもパフォーマンスも面白いし、なんなのこのおっさん。

ひょっとしたらエディこそ一番素敵でおバカな歳の取り方をしているのかもしれん……。

暑過ぎるので、せめて涼しい曲を聴いて

2009年06月21日 00:37

暑すぎる。夏か。
ということで、涼しい曲を聴きたい。というか最近は何故かSHERBETSばかり聴いているのですが。


「これぞシャーベッツ!」て感じの曲。こういう路線はブランキーよりも雰囲気があって良いと思う。
ところでこういうイラストが変化していく感じのPVっていいですよね。


何故かようつべよりもニコニコの方がPVが多いことがある。シャーベッツから二つ目。
『ダンデライオン』とかそういうタイプの曲の一種の完成系。普通に素敵な曲。売れそうなのに。
思うに、シャーベッツにはロックンロールよりもこう、爽やかな曲か幻想的な曲の方が似合う。
いや、ロックンロールもいい曲はいいんですけど。


The Cure。キュアーのポップな透明感ってのは、その後のインディポップの一つの路線を築いた感がする。心地良い涼しさ。寒いか?


もう一曲キュアー。ギターポップの永遠のテーマソング。


ベルセバ。どこかのファンが作った動画。可愛らしくって、そして美しすぎるっす。
チャーリーブラウン……。


モグワイ。泣く子も黙り、凍り付き、そして涙する。鳴ってる周りだけ圧倒的に冬。


トクマルシューゴ。沢山楽器があるのに、総体として凄く透明。そして不思議なワクワク感。


ところで、日本の夏というのは何故にここまで「透明」と対極にあるような鬱陶しき実感に満ちているのでしょうか(笑)じっとり暑い……。日本にももっと透明な「夏」がある筈なんですが。



スマパン。曲の爽やかさの割に強烈すぎるPVで冷や汗(笑)ムゴ過ぎて逆に笑えてくるPV。
一応、不快になりたくない人は注意。私たち、まだ生きてるのよねこれが。


ジム・オルーク。どうでもいいけど日本とボサノバって今ひとつ相性が良くないように思う。
国民性が合わんのか。勤勉な日本人ってボサノバ聴く余裕無さそう、みたいな。
って私は西洋気触れか。


ギャラクシー500。途中で終わっちゃうPV。もうすぐ七月か。



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